紅楼夢ヒロインの金陵十二釵を詳しく語っていくシリーズ、今回はみんな大好きな元気娘、史湘雲です。
劇中の経歴
賈家の最高権力者、史太君の孫娘。両親は既に亡く、叔父のもとで暮らしているがそちらも没落気味。実家の空気を嫌って、時々賈家に遊びに来て羽を伸ばす。明るくお茶目な性格で誰からも愛された。賈宝玉達が大観園に入ってからは、自分も専用の住居をもらいつかの間の繁栄を楽しむ。やがて賈家が没落していくなか、実家に戻って結婚。しかし夫を病で失い(第百十八回)、若くして寡婦になってしまう。
その人物像
主要ヒロインである金陵十二釵の中では、最も親しみやすいキャラクターてはないだろうか。メインヒロインの林黛玉と薛宝釵は明確に人格的欠点が存在し、残りも気弱すぎる迎春、しっかり者だけどキツイとこもある探春、潔癖過ぎる惜春、女傑だけど悪辣な王煕鳳、偏屈すぎる妙玉、とやはり目につくところがある(それだけ人物描写のリアリティが深いということでもあるけれど)。しかし史湘雲にはこれといった欠点が見当たらず、非常に好感度の高いキャラクターになっている。
舌ったらずで数字の「二(er)」がうまく発音できず「愛(ai)」になってしまう、男装して周囲を驚かせる、お行儀悪く酔って園内で寝てしまう、などなど年相応の幼さや失敗は見せるものの、その一方で常識や教養を感じさせる描写も多く、決してお馬鹿なお嬢様ではない。常識については、賈宝玉の悪い癖(口紅を食べる、学問をバカにする)をたしなめたり、宝玉の結婚が決まってからは当時の男女作法に従って顔を合わせるのを控えたり、教養ならば黛・釵に次ぐ作詩の腕や、侍女の翠樓へ陰陽の解説をしたりといったところからうかがえる。また当時の女性に必須だった刺繍についても、家の経済を助けるためかなりこなしていた。第百八回で結婚後の里帰りをした時は、史太君の慰め相手になったり、宝釵の誕生祝いを提言して主賓を務めたり、それまでと比べ精神的に成長した様子を見せている。もっとも、これは続作者の筆によるものなので、人によっては違和感を覚えるかもしれない。後述するけれど、後四十回における湘雲の扱いは雑な部分が多い。
林黛玉とは親友といえる仲で、互いに悪口にしか思えないほどキツい冗談を言い合ったりもする。特に中秋節における詩の応酬が名場面。薛宝釵には詩会の宴会費用を肩代わりしてもらったり、家庭の事情を話したりとそれなりに深い仲だったが、中秋節で身内だけで過ごす宝釵に文句を言っている。このあたり、湘雲も黛玉と同様両親がいないので、家族がまだ揃っている宝釵との境遇差が仲良し度の差につながったのかもしれない。
宝玉の侍女・襲人は一時期湘雲に仕えていた過去があり、気心の知れた仲。それもあってか、襲人は湘雲に宝玉用の靴や小物を縫ってもらったりしていた。
さて、紅楼夢のストーリーにおける彼女の役割は主に二つほど考えられる。
一つは、四大家族(賈・王・薛・史)のうち史家の内情を我々読者に伝えてくれること。作中に出てくる史家の情報は、ほぼ湘雲を通じて読者に明かされる。
例えば三十二回。宝釵による又聞きではあるけれども、史家の厳しい経済状況が語られる。食うに困るとほどの貧しさではないにせよ、一家の女性達が寝る間も惜しんで針仕事をこなさなければならないというから、相当に苦しいのは明らかだ。少なくとも賈家に関する限り、誰もこんなことはやっていない。
また史湘雲には両親がいない。彼女の面倒を見ているのはケチな親戚で、湘雲を可愛がっていないのはもちろん、史家を支えていくだけの能力も見受けられない。
もう一つは、賈宝玉との関係である。彼女は、黛玉の木石縁、宝釵の金玉縁に次いで宝玉との婚姻関係がほのめかされているキャラでもある。前八十回では、二人を結びつける金麒麟というアイテムが登場する。現行本において、湘雲の夫は名前もわからないままだが、曹雪芹の原案では宝玉の持っていた麒麟が衛若蘭という貴公子の手に渡り、それが縁で湘雲と結婚したという。その後は諸説分かれているが、有力なものに賈家没落後の宝玉と湘雲が再婚する展開がある。宝玉はその時点で妻の宝釵がそばにおらず(難産で死亡もしくは賈家没落後に別の相手と再婚などこれまた色々説がある)、湘雲も寡婦になっていた。宝玉と湘雲はもともと馬が合う仲であり、知性のレベルでも釣り合いがとれている。また湘雲は黛玉と最も仲が良かった人物であり、宝玉が黛玉の思い出を語れる一番の相手でもある。そんなわけで、結婚に至るのも決して不自然ではない。とはいえ、二人だけでは落ちぶれた状態から抜け出す術もなく、乞食をしながらその日を過ごすといった夫婦生活を強いられる。その後、夫婦は過去の思い出にまつわる場所をめぐりながら、離散した人々達の末路を知り、結局世の無情を悟った宝玉は出家の道を選ぶ、というもの。この流れが原案通りだったとするならば、湘雲は宝玉の出家に関わるキーとなった人物といえるだろう。
現行本の曖昧な描き方もあって、映像化作品でも彼女の最期はかなり解釈が別れる。傑作と名高い87年版ドラマでは、史家が滅んだ後、なんと妓女に落ちぶれている。これは他の映像作品では見られない独自解釈で、観る側としても非常にショックが大きい。96年ドラマ版では乞食になって宝玉らと再会している(ここでは宝釵や李紈達も一緒にいる)。これが原案に一番近いパターンかもしれない。
ちなみに、湘雲の出番は実際の顔見せになる十九回以降、常に相当の分量で描かれているのだが、十九回以前は(第五回の太虚幻境は別として)登場人物の間でもまったくといっていいほど言及されず、また結婚の伏線である金麒麟に関しても三十一回で出てきて以降、殆ど触れられない。個人的な推測なのだが、湘雲は十二釵の中でも追加もしくは最後の方に作られたヒロインなのではなかろうか。紅楼夢は前八十回の段階でも何度か改稿されており、結局原案だけがあって本編に反映されなかった内容も多々ある。現行本の後四十回は湘雲の描写が非常に乏しい。九十四回で実家に帰った後、結婚については伝聞や地の文で軽く語られるのみ、それからまともな出番があったのは百八回くらいで、最後の登場となった百十九回でも一切台詞無し。前八十回における出番の多さを考えると、随分あんまりな扱いだと思う。
紅学研究者はやはりこのあたりが気になるのか、原案を再現したリメイク作では宝玉との結婚生活を描いているものが少なくない。特に劉心武の描いた紅楼夢だと湘雲は最終回まで宝玉と旅を共にしている。