金庸考察 華山論剣の謎 

 金庸の武侠小説「射雕英雄伝」に登場する伝説の奥義書・九陰真経。本書をめぐって、作中では武術家達の激しい争奪戦が蹴り広げられた。最終的に、華山の頂上に集った達人達が腕比べを行い、勝利した全真教の王重陽が九陰真経を得ることになった。これが「華山論剣」である。

 金庸作品では、多数の武術家が一同に介して戦いを繰り広げるイベントがしばしば登場する。ところが、この崋山論剣は謎なところが多い、不思議な大会だ。

 まず、主催者が不明。他の金庸作品では少林寺のように実力のある門派や、朝廷のような戦力組織が音頭をとるのだが、論剣は舵取りをした人物や組織について一切語られていない。そのせいなのか、作中終盤で開催された第二回の論剣も、達人たちが自主的に集まって開催、そして決着らしいものもつかないまま解散するというグダグダぶりだった。第一回は「九陰真経争奪戦」という明確な目的があるが、二回目は開催意図も曖昧。恐らくは「天下第一を決める」なのかもしれないが、それなら尚更準備と運営くらいちゃんとやるべきだろう。
 また戦いのルールも不明。一応、論剣の名の通り、最初は剣術を競っていたらしい。作中では第一回論剣時、洪七公と欧陽鋒が剣術で他の達人に遅れをとり、以来剣を捨てて他の得物を使うようになったことが語られている。もっとも、剣で勝負がつかなくて途中からルールを変えたのか、五絶は各々の特技(蝦蟇功や一陽指など)をぶつけ合い、その結果東西南北の四人が互角、王重陽がその上という結果になった。第二回にいたってはみんな好き勝手に戦っている。つまりルールも相当いい加減だったようだ。
 第一回は、作中の描写からすると招待制だったらしい。中には裘千仭のように実力不足を感じて参加を断る者もいた。また、規模もそこまで大きくなかったと感じさせる描写がある。例えば、王重陽が論剣に連れてきたのは弟子の王処一と義弟の周伯通のみだった。乱戦状態になるのを避けるため、同勢力の参加者は数人のみ、みたいな規定があったのかもしれない。第二回では丘処機や趙王府の食客軍団をはじめ、参加する気があるのか見物のみなのか、とりあえず崋山に赴いた人間はいたが、それでも少数である。というか、この人達も肝心の論剣が始まる前に退場しちゃったし…。
 仮に小規模な大会だったとして、そうなると不可解なのが開催期間の長さだ。作中では決着までに七日七晩かかったという。まあこれは諦めの悪い西毒とか、プライド高くて負けを認めたがらない東邪あたりがゴネて勝負を引き伸ばした、とか考えてもいいけど…。
 他にも意味不明なのが「二十五年に一度」という開催ルール。いくらなんでも長過ぎ。何故そんなに開催期間を空けるのだろうか。注目すべきはやはり二十五年という数字。世代交代が起きるくらいの間隔だ。それだけの時間が経てば、第一回の頃に絶頂期だった達人も死んだり衰えたりしているだろう。なので好意的にとらえるならば、新世代の五絶を定めるため二十五年間隔の開催にしました!といったところだろうか。生憎、作中では二十五年経っても東西南北の達人がピンピンしており、若い世代が参加する余地は殆ど無かったが…。
 このように、実態を見ると運営のグダグダぶりが際立つ「崋山論剣」だが、それでも作中の武林では「物凄い達人達が天下第一を競ったスゴイ大会」みたいな感じで語られている。まあ、集まってる達人の実力は本物だし、間近でそれを見物してた人達が少ないからこそ、余計に神聖視されているのかもしれない。
 ちなみに、続編の「神雕剣侠」終盤でも、低レベルな武芸者達が崋山論剣を称して武芸を競う場面に、主人公たちが出くわしている。
 もしかすると第一回の崋山論剣も、こんな感じでなんとなく達人達が集まり、適当に戦ってただけなのかもしれない。後になってみんなが好き放題に語るうち「奥義書をめぐる凄まじい戦い!」のように神話へ昇華されてしまったのかも。そういえば「倚天屠龍記」でも、楊過が百年前にモンゴルの皇帝をどう倒したかは正確に伝わっていなかった。江湖の噂なんていい加減なものなのだ。
 色々推測だらけになってしまったが、こうやって空想させる余地を沢山与えてくれる金庸先生はやはり偉大である!