中国古典小説「紅楼夢」の主要女性キャラである金陵十二釵の個別特集。残すところ三人となりました。今回は作中の裏主人公ともいえる存在、王煕鳳について語っていきます。
劇中の経歴
栄国邸・賈璉の妻。美しく聡明で弁も立ち、若くして家政を任されている。上昇志向も強く、様々な仕事をこなすうちその権力は賈家全体に及ぶほどになる。しかし私生活では子供に恵まれず、夫の璉には度々浮気される不幸が続いた。
また、苛烈な性格ゆえ人々の恨みを買い、終盤では高利貸しなどの悪事が露見、賈家の崩壊と前後して失意のうちに亡くなることとなる。
その人物像
紅楼夢の物語は宝黛釵の悲恋をメインに置き、もう一つの大きな軸として大貴族賈家の興亡が描かれる。こちらの中心にいるのが王煕鳳であり、まさに裏主人公ともいえる存在。出番の多さだけなら宝黛釵よりも多いくらいだったりする。
登場時点の第三回で、既に王夫人から栄国邸の家事を任されており、第十三回で秦可卿が亡くなると寧国邸でその葬儀を取り仕切り、また妃になった元春の里帰りという大イベントもこなす。不正やサボりがあれば徹底的に取り締まり、緩んだ家風をただしていった。その手厳しさからついたあだ名が「鳳辣子(からしの鳳ちゃん)」。両邸にまたがる実権を得た彼女は、内外問わずやり手の若嫁と評されるようになる。
が、その運営は容易ではなかった。既に賈家の経済は逼迫し、財布も底をつきそうになっていたからだ。賈家の収入源は、先祖代々の土地から上がってくる寄進、世襲職の俸給などだが、世代を経るごとに人が増え、その多くが祖先の恩恵に寄りかかる人間ばかりであり、堕落の一途をたどっていた。
煕鳳はそんな状態で家政を受け持つことになってしまったので、まっとうな手段ではとてもやり繰りが出来なかった。そこで結婚裁判を仲立ちして銭をぼろ儲けしたり(死人が出ました)、侍女達の給料を使って高利貸しをしたり(襲人ら一部の賢い者には怪しまれる)、危ない橋を渡りながら家計をまわしていく。
また、表面上絶対的に見える権力基盤も意外と脆弱。使用人達を動かすのは第一にお金である。しかし若い煕鳳は大元の金庫を開く権限を持っていない。常に王夫人ら年配の奥方や最高権力者である史太君におうかがいを立てている。煕鳳が腕を振るえるのは、その史太君のお気に入りだからだ。彼女さえイエスと言わせてしまえば、他の奥方連中は逆らえない。そのため史太君の死後、金庫の権限がケチな邢夫人らに移った途端、煕鳳は葬式もろくに取り捌けなくなっている。
また旧中国の家庭において、外から嫁いできた女性は基本的に最下層の地位である。男性より下なのはもちろん、本宅のお嬢様などよりも下。しっかり者な探春と接する場面では、その立場の差がよく描かれている。
また、嫁いだ女性が家庭内で地位を築く第一の正当な手段は子供を産むこと――それも男児を産むことである。男児が産まれれば財産を継承する権利が生まれ、また孝の精神に基づき母親は将来の家長になる男児から重んじられる立場となる。賈家の男主人達が好き放題しながらも史太君に頭が上がらないのはこのためだ。
ところが、煕鳳はなかなか子供が出来ない。作中では流産も経験し、やっと産まれたのも病弱な女の子(巧姐)が一人だけ。これは彼女にとって大変辛いことだったはず。同じ若嫁の李紈などは、寡婦でありながら男児のいるおかげで安定した給金をもらって生活が出来ているのだ。
そのうえ、夫の璉は賈家屈指の遊び人。煕鳳の気持ちも知らずしょっちゅう外の女と浮気を繰り返している。よりにもよって煕鳳の誕生日祝いに女と同衾していたこともあった(第四十四回)。煕鳳も侍女の平児を妾にやるという名目(同房ともいい、自分の侍女を夫の妾にすること。妻としては、外のワケワカラン女とくっつかれるより、幼い頃からそばにいて気心も知れた侍女を妾にする方が立場を脅かされず安心)で、夫を監視させていたが、あまり効果はなかった。それどころか平児が自分を出し抜こうとしているのではないかと疑って仲間割れをしたことも。
賈璉も妻の気性を呑み込んで浮気のやり口が段々巧妙になっていき、中盤では尤二姐をまんまと監視の目が届かぬ外囲いの妾にする。後手にまわった煕鳳は、親切な振りをして尤二姐に近づき、油断させてから一気にあの手この手でいじめ抜き、自殺に追い込んでしまう。はっきり言ってやり過ぎだが、煕鳳は少しも悪びれる様子はなかった。
ちなみに、煕鳳自身も一族の若者・賈瑞から言い寄られたことがある。しかしこれまた計略にかけて(半ば瑞の自業自得だが)死に追い込んでしまった。本編では深く描かれていないが、二人の台詞を深読みするなら、ちょっと人に言えない間柄でもあったようだ。
といったように、私生活の方面は順風満帆でない。煕鳳は賈政の妾である趙氏に対してかなりあたりが強いが、これは趙氏が身分も低くトラブルメーカーな割に、男児を産んでいることへの嫉妬があるのかもしれない(まあ趙氏も煕鳳に嫉妬して呪いをかけたり悪口吹き込んだりしてるので、煕鳳が彼女を普段から嫌う理由はじゅうぶんにあるんだけど)。家事に邁進するのも、子供を産めていないマイナスイメージを少しでも払拭し、面子を保ちたい気持ちがあったのではないか。
しかしその家事においても、多くの悩みがつきまとう。気丈な女性として描かれる煕鳳だが、何だかんだ出自は良家のお嬢様なので、陰口を叩かれて泣いてしまったり、ストレスで体調不良を起こしたりといったこともしばしば。
悩みの一つが王夫人や邢夫人といった姑連中で、実務を煕鳳へ丸投げしておきながら小さな問題を拾い上げてねちねちと嫌味を言ったり、無茶ぶりをしてきたりするのだ。第四十六回では、舅の賈赦(枯れた女好きのジジイ)が史太君の侍女である鴛鴦を妾に望んだため、その説得を邢夫人から依頼される。正直乗り気でなかった煕鳳だが、相手が相手なので断ることも出来ず、陰謀へ荷担する羽目になった。反面、利害が一致する時は積極的に協力を申し出ることもあり、作中最大の悲劇である二宝(宝玉・宝釵)結婚の策は煕鳳のアイディアだった※これについては後述。
ちなみに高利貸しの件などは奥方や史太君には秘密で行われていたので、お金のことで小言を言われることは殆どなかった。
煕鳳にとってもう一つ苛々の種なのが、大勢いる使用人達である。長らく続いた繁栄のせいで、みんなろくに働かず、つまらぬことで喧嘩し、あげく裏で違法賭博まで始めたりする始末。煕鳳は権力をかさにがんがん締め上げるが、そのために恨みを買っていく(陰では下女達から夜叉呼ばわり)。一方で、家政の中心を担う煕鳳へ取り入ろうとする者も多く、彼女の周囲では壮絶な賄賂合戦が行われる。第二十四回~二十六回では、一族の中でも身分の低い賈芸が、大観園での仕事を得ようと煕鳳に度々アプローチをかける姿が描かれている。
煕鳳も常に厳しいばかりではない。例えば襲人が喪中で里帰りする時は「きちんとした格好をしてないと恥をかかせてしまう」と立派な身なりをさせる、能力があるのに目をかけられずにいた小紅を自分の侍女として迎える、若い侍女達ばかりが良く扱われることに癇癪を起こす乳母を飲みに誘ってなだめる、など目下を気遣う場面も多く見られる。他にも信頼している使用人のモチベを上げるため、綺麗な侍女を嫁に与えるといった工作をすることも(ただし侍女本人の意見はガン無視だったが…)。また後半では煕鳳自身がこれまでのやり方を反省し、締め付けを緩くしようと平児に相談もしていた。
一時期、病気でダウンした煕鳳の代わりに探春が家事を見ることになった際、探春が煕鳳以上の厳しさで仕事をまわすのを見ると、平児を遣わして加減するように仕向けている。単に厳しいだけでなく清濁使い分けられる点で、煕鳳の方が実務力があると思う。
煕鳳の見せた優しさが、思いがけないかたちで報われたのはやはり劉ばあさんとの交流だろう。王夫人からは「そんな遠い親戚知らないから適当に処理して」と命じられた煕鳳だったが、大貴族の夫人らしい鷹揚な対応で接し、劉ばあさんを感動させる。普段周りにいるおべんちゃら達と違って、裏表がない劉ばあさんのことを煕鳳も好きになり、娘の名付け親になってもらうなど、損得や身分にとらわれない交友関係だった。終盤、病気で余命間もない煕鳳を見舞いに来た劉婆さんは、幼い巧姐のことを託され、彼女を窮地から救うことになる。紅楼夢でも感動的なシーンの一つである。
他の十二釵同様、煕鳳も身内には恵まれていない。舅の賈赦は女好きのジジイ、姑の邢夫人は心の狭いケチ、夫の賈璉は遊び人、そしてちょくちょく出てくる親戚の王一族は常に金の無心ばかりしてくるクズ揃い(その一人である王仁は煕鳳の死後に巧姐を売ってしまおうと目論んだ)。それだけに、身内でない劉ばあさんとの友情が一層美しいものとして印象に残る。
日常では基本的に年輩の人々とのやり取りが多い煕鳳だが、世代や年齢は賈宝玉達に近く、自身も派手好きなところがあるので、宴会に出れば年頃の女性らしく羽目を外す。もっとも学があまり無いので、大観園の兄弟姉妹達のように詩作をするウィットな遊びは不得手(とはいえ、第七十三回で大観園のエログッズ事件が起きた際には多少なりとも読めるようになっていた)。その代わりに大変トークが上手いので、宴会では皆をガンガン笑わせている。
現行の後四十回では、突然の家宅捜索と前後して高利貸しなど煕鳳の悪事が暴かれる。やったことがやったことなので、家族や使用人たちからの信用はがた落ちしてしまった。それからは何事も上手くいかず、夫からはひたすら冷たく扱われ、第百八回で史太君が暗い家のムードを払拭させようと開いた宴会では、失言を繰り返して場を白けさせてしまった。賈家に降りかかる不幸や事故は後を絶たず、煕鳳は心労から重い病にかかり、そのまま回復せず亡くなった。
曹雪芹の原案ではこれまでの悪事を糾弾され、璉から離縁されて金陵に帰ることになっている(これは第五回の詞でも明言されている)。大家庭の女性にとって、出戻りになることは死刑宣告に等しい。庶民派な金瓶梅の女性達のようにぽんぽん再婚したりは出来ないからだ。妾腹という理由で嫁入り先の選択肢が減る探春、一生寡婦として生きることを強いられる李紈など、貴族には貴族の苦しみがついて回るのである。他にも原案のエピソードでは、高利貸しをはじめとする悪事のため、煕鳳は獄に繋がれたという。名高い87年版ドラマではこれが採用され、煕鳳は獄中で死亡。罪人として葬られるという悲しい末路だった(ドラマ版では小紅との主従エピソードがつけ加えられていて、これも名場面の一つ)。
ところで、後四十回における二宝結婚の掉包児計(すり替え計。宝玉に黛玉を娶らせると嘘をついて、当日に宝釵と結婚させる)については、ドラマなどで多く採用されつつも原案に沿わないという意見がある。つまり、本来煕鳳は宝黛の結婚支持派だったという説だ。これは結構説得力があり、というのも前八十回において煕鳳と黛玉は良好な関係を築いており、冗談も言い合える仲だったからだ。また史太君からすると黛玉は直系の孫娘。その史太君に同じく可愛がられている煕鳳にしてみれば、黛玉と仲良くしておくことには利がある。また黛玉は生来病弱なので、頭に立って家政を回せるとも思えず、もし嫁になっても煕鳳のポジションが奪われる心配はない。
一方、煕鳳と宝釵は前八十回で殆どやりとりがない。例えば第七十三回の園内捜索の場面を見ても、煕鳳は未だ宝釵を「お客様扱い」している節がある。宝釵を嫁に推しているのは王夫人だが、これは宝釵が当時の儒教女性の模範であること以外に、宝釵が姪であるというのも大きい(宝釵の母、薛夫人は王夫人の妹)。王夫人かすると、煕鳳は史太君を味方につけて自分の意向をすっ飛ばしたりするし、また系図からいっても身内からやや遠い(夫の兄の息子の嫁)ので、煕鳳が好き放題にしている状況は決して面白くないはず。だから、血縁が近く、なんでも言うことを聞くであろう宝釵が嫁に来てくれる方が都合もいい。なにより商家出身の宝釵は家庭を切り盛りする能力も優れ、さらに煕鳳にはない学問の素養もある。宝釵が嫁になると、煕鳳の立場が無くなるのである。
とはいえ、後四十回の展開もそこまで変というわけではない。黛玉はもうかなり病が進行していたし、あえて宝釵を推すことで王夫人との関係を良くしておく腹積もりだったと捉えることも出来る。実際、嫁いできた宝釵はあまりに控えめだったので、煕鳳にとって代わろうとするような動きはまるで見せなかった。
王煕鳳は宝黛釵の悲劇や賈家崩壊の原因を作ったこともあり、ファンからは悪人扱いされることも多い。しかし優れた能力や人に愛されるユーモアを持っていたのもまた事実。紅楼夢という作品を語るうえで、最も奥深いキャラクターの一人なのは間違いない。
コメント
いつも楽しく読ませて貰っております。
これまでの十釵を思い返すと感慨深く、
却って気の利いた感想が出てきません。
松江から無事の完結を願っております。
こちらこそいつもコメントありがとうございます!
出来れば年内に黛ちゃんまで行ければ…と思っております。