ゆるゆる金陵十二釵考 賈元春

金陵十二釵の個別特集。八人目は賈家四姉妹のトリとして賈家繁栄の象徴・賈元春を紹介します。

劇中の経歴
栄国邸・賈政と王夫人の長女。才徳美貌備え、若くして後宮に入り宮女となる。その後、妃に昇格。賈家に莫大な繁栄をもたらした。序盤にて大々的に里帰りが祝われるが、賈家は大観園の設営をはじめ多大な出費を強いられ、せっかくの家族の再会も妃という身分差が邪魔をして湿っぽいものに終わってしまう。
その後は直接出番は無いながらも、常に賈家の状況や、実弟である宝玉の将来を気にかけていた。終盤で病にかかり亡くなってしまう。これをきっかけに、賈家には次々と不幸が舞い込んでくる。
地位の変遷は平宮女→風藻宮尚書→賢德妃。ちなみに年齢は若者が多い十二釵の中だとかなり上の方。

その人物像
紅楼夢は賈家を舞台に物語が進むため、宮中にいる元春の描写は少ない。しかし彼女の地位の変遷が、そのまま賈家の繁栄と没落にリンクしているため、やはり紅楼夢を語るうえでは決して外すことが出来ない人物である。
第二回では、賈雨村と冷子興の会話中で、その名前の由来について語られている。雨村が貴族の娘に「~春」なんてありふれた名前をつけるのは野暮だと言った際、子興は長女が元旦生まれだったので「元春」と名付け、以降の姉妹達もそれに倣ったのだと答える。が、これはもちろん表面上の理由。紅楼夢に少し詳しい読者はご存知の通り、賈家四姉妹の名は「元、迎、探、惜」→「原、应、嘆、息(もとから嘆くしかない)」のアナグラムである。二人の会話を通し、作者がキャラ名に関する釈明をしているというわけ。

そんな彼女の作中におけるメインの出番は第十八回。妃に昇格し、賈家へ帰省してきた場面である。が、その帰省時間はなんと僅か一晩。しかも、天子の妃となった彼女の地位は賈家の人々より圧倒的に高くなってしまい、祖母や父母までが遠慮してよそよそしい態度をとる始末。女性とは対面が許されたが、男性である父とは御簾越しの会話のみで顔を合わせられなかった。自身でも口にしたように、普通の家庭と同じ一家団欒を楽しむことも出来ない。唯一の慰めは、宮中に入る前可愛がっていた弟の宝玉が、元気に成長した姿を見れたことくらい…。
賈家はもともと武功で名を成した一族であり、天子とは臣下の関係だった。しかし元春が妃へ昇格したのをきっかけに、その関係が身内へと変化する。莫大な栄誉には違いないのだが、以降の話を読めばわかる通り、賈家への経済的負担を増大させてしまう。そのもっともたる例が、元春帰省に際して作られた大観園。なにせ天子のお妃様を迎えるのだから普段の邸宅を使っては無礼にあたる。そこでわざわざ里帰り用の別院を新設することになったのだが、はっきり言って壮大な無駄遣い意外の何でもなく、帰ってきた元春が「どれほどお金をかけたのでしょう…」と不安に思うほどだった。このあたりは、第十六~七回での詳しい建設描写を読めば実感できるはず。大体、彼女が宮中へ戻ったら、誰も住まないだだっ広い住居がそのまま残されるのだ(一応、次回以降の里帰りにも使うんだろうけど、メンテナンス代だけでも馬鹿にならない)。元春の声かけで後に宝玉と姉妹達が住むことになったが、それが無かったら一体どうするつもりだったのだろうか…。賈家の人々の無計画ぶりがうかがえる。また、元春が宮中から賈家まで往復する際も警護の手配やら道の装飾があり、さらに帰省の催しとして演劇の上演もやったり、とにかく金がかかったことが強調されている。表向きこそ華やかだが、序盤から賈家の屋台骨が既に危ういことが語られているため、なかなかぞっとする場面でもある。

宮中に帰った後も、元春は度々実家のことを気にかけている。第二十二回の燈謎をはじめ、遣いを寄越してコンタクトもとったりしている。しかし賈家の人々は元春のおかげで栄華を享受しているにも関わらず、彼女の言葉にはちっとも真剣に耳を傾けようとしない。相変わらず金をじゃぶじゃぶ使って倹約する気配は皆無。当然、元春の感じている孤独も気にかけない。里帰りの台詞からみても、元春本人は後宮の出世を別段喜んでいる様子は無い。むしろ若い頃から家族と引き離され、宮仕えを永遠に続けなければならない苦悩の方が強い。賈家の人々は表面上こそお妃様と持ち上げているが、実際は元春を大事にしておらず、そのツケを終盤で払うことになるわけである。
ちなみに、宝玉は実弟で元春から可愛がってもらっている割に、姉へ対して殆ど言及しない。宝玉の男女観では「結婚すると女は駄目になる!」そうだが、宮仕えしている女性の場合はどうなのだろうか。

曹雪芹の手による前八十回では、元春の最期は描かれていない。しかし例によって他の十二釵同様太虚幻境で予言されている。元春を詠んだ詩に「虎兎相逢(虎と兎が出会う)」という文句があり、後四十回ではこれを「寅年の卯月」と解釈し、第八十六回で一度布石を作った後、実際に九十五回で元春は病死する。しかしこれには年月の矛盾があり、例えば後四十回では元春の没年齢が四十三歳になっているが、これは王夫人や宝玉との年齢差を考えればありえない数字である。
実は、現在残る紅楼夢の初期本では「虎兎相逢」ではなく「虎兕相逢」と記されたバージョンも残っている。問題は「兕」ってなんやねんということなのだが、これが紅学でも色々解釈されていてはっきりしない(文字通り虎兕(伝説の生物)を表しているとか、悪人の比喩だとか、普通に兎の誤字だとか)有名な紅学者の劉心武は虎兕を皇帝と太監であると解釈し、元春の死は宮中の政争が原因だとしている。これは結構筋が通っていると思う。というのも、第十八回の帰省に際して、舞台の見世物が行われるのだが、そこで出てくる四つのタイトルはいずれも賈家の未来を暗示しており、その一つに「長生殿」が登場する。これは玄宗と楊貴妃の悲恋を描いた戯曲で、楊貴妃は皇帝の命で自害に追い込まれる。それを踏まえれば、元春の病気と死の遠因が宮廷の中にあったと考えてもおかしくない。問題はそのタイミングで、後四十回は元春の死で賈家が帝の権威を失い、様々な犯罪を暴かれて没落という流れだが、長生殿の展開に倣うなら賈家の犯罪が暴かれる→それによって元春が寵愛を失い死に至る、の方が自然だとは感じる。
いかんせん紅楼夢では宮廷の描写が少ないので、このへんの真相は今後も解釈が分かれるだろう。とはいえ紅楼夢はもともと曹雪芹の自主規制(真相を隠すためのファンタジックな設定とか、秦可卿のエピの書き換えとか)が働いてるし、当時の中国政府における検閲事情を考慮すれば、あんまりおおっぴらに宮廷のことをあれこれ書くわけにもいかなかったのも事実。やむを得ないところではある。

翻案作品や映像化では、宝玉と宝釵の結婚に元春の意向が関わることが多い。とはいえそれも裏で王夫人や王熙鳳が進言してたりするので、必ずしも元春本人だけの考えとはいえない。概ね、彼女の権威を利用して宝・釵の結婚を進めようとする大人達のセコさを強調するための意味合いが強め。2024年制作の「紅楼夢之金玉良縁」もこのパターンだった。
映像作品では元春省親が序盤の見せ場の一つ。ここを見ればその作品のお金のかかり具合がよくわかる笑
描写が少ないだけに掘り下げの余地もあるので、元春を主人公にしたスピンオフなんかを作っても面白いと思うんだけど、いつか実現しないだろうか。まあ展開はわかりきってるしかなり暗い内容になりそうだけど…。