酸秀才。日本でこの言葉を知っている人はかなりの中国文学通ではないだろうか。
主に古典小説や戯曲に出てくる「貧乏インテリ」を揶揄する言葉であり、酸とは貧しい文人の服や口臭がすっぱい臭い醸し出しているところからきている。どんな臭いやねんと言われたら、体を清潔にしていないところからくる悪臭と思われるので、現代感覚的にはカードゲームショップにやってくる体を洗わないオタクみたいなものだろうか。
金・元では「細酸」とも呼ばれた。この時代、異民族の支配で科挙が行われなくなり、多くの文人達は出世や稼ぎの道を失うなどその地位は大きく低下している。科挙さえあれば、下位試験に合格するだけでも何らかの地位を得てバックアップを得たり、受験に関連する家塾教師や書店業や代筆業などの稼ぎ口にありつけたのだが、元代はそれらも無くなってしまった。結果、教養はあっても実生活をまともに送れない彼らは堅実な暮らしをする庶民から笑いものにされた。
元代は後の小説文化発展の前段階である元曲が発展したが、その中でも文人はどこか滑稽な役回りにされることが多い。才子佳人劇に顕著だが、主人公の書生が一目惚れした女性の尻を追いかけて科挙受験を二の次にしたり、しがない家塾教師として家に忍びこんだりする姿に、当時の庶民が抱いていた文人像を見ることが出来る。
そして、実はこれら元曲の書き手こそが、まさに職を失った文人達だったりする。当時戯曲の類は庶民の低俗文化だったのだが、彼らは糊口をしのぐためその脚本を書いたのだ。ちなみに、才子佳人劇の書生は前述したように滑稽な立ち回りをしつつも最後は佳人とめでたく結ばれるハッピーエンドが大半なので、書き手の込めた想いとしては「俺は確かに貧乏やけど時勢と科挙さえあればいいとこのお嬢さんと結ばれるほどの逸材なんやで」といった方が近い気がする。もっとも「紅楼夢」に出てくる才子佳人評を見るに、当時の人達にもそういう作者の情けない願望は見抜かれてたようだが……(第五十四回の史太君の台詞より)。
酸秀才の姿は漢民族が覇権を取り戻した明代、そして異民族の支配ながらも科挙が正式に続いた清代でも見られる。清代の小説「儒林外史」は科挙をメインテーマにした群像劇だが、そこには老年になっても受験を続けたり、学問は出来ても実生活に疎い書生が描かれている。
時代は近代に入るが、魯迅の有名な短編「孔乙己」では時代に取り残された貧乏書生のシビアな末路が描かれている。小さな酒場でいつもつけ払い、店の小僧に聞かれてもいないのに字の書き方を自慢する、自尊心だけは異常に高く「そんなに賢いのにどうして合格できなかったんだ」という都合の悪い質問には無視を決め込む、といった行状から近隣の人達に嘲笑される。しかし傍から見て滑稽でも当人からすれば笑い話ではない。生き方を変えられない孔乙己は困窮の末犯罪に走り、誰にも知られないところで死んだことが示唆される。
現代は学問で困窮するようなことは少ないけれども、酸秀才のようにプライドと屁理屈にまみれ実を伴わない人は、ネットなんかを見ていると中国に限らず日本でもちらほら存在しているように感じる。