金庸武功考察「笑傲江湖」より葵花宝典

笑傲江湖1:奮身救人【電子書籍】[ 金庸 ]

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本記事は作品の重大なネタバレを含んでおります。未読の方はご注意ください。







武林制覇をめぐる達人達の凄惨な闘争を描いた武侠小説「笑傲江湖」。作中に登場する葵花宝典は、凄まじい威力をほこる伝説の武術書であると当時に、物語の核心的な謎にも関わる重要なキーカードであった。
が、何より読者にインパクトを与えたのがそのイカレた習得条件。
この宝典武術を修行したかったら、まず最初に自宮しなければならないのである。
まさに中国人でなければ考えつかないようなアイディア。作中では武林最強になりたいあまりスパスパ一物を切り落とす男が続出する狂った展開となった。
凄まじい強さを得られる反面リスクも多大で、子孫が絶えるし、身体や精神に異常をきたしたりする。ひげが抜ける、声が高くなる、衆道趣味に走る、感情の抑制が効かなくなって欲望に突き動かされる、といった事象は現実の宦官にも似ている。
基本的に武林における奥義の大多数は、修行を進めるほどに難度が増していくものだが、この葵花宝典は一番最初の段階(自宮)を越えるのが最も困難で、それさえクリアすれば割と楽に習得出来る模様。なお自宮しなかった場合は欲情で内功が暴走し死に至る。もちろん自宮に失敗しても死ぬ。女性が修行したらどうなるのかは説明されていないが恐らく修得不可。武林では処女や童貞じゃないとダメなど性別を限定する奥義も少なくないので、葵花宝典もそのタイプではないだろうか。
奥義を観察した令狐冲の見立てでは、その強さの本質は想像を絶する速さ、先の読めない奇異な動きにあり、技の型や内功自体はさほどのものではないとのこと。実際、後に宝典を学んだ岳不群は令狐冲と戦った際、型の隙をつかれて敗北している。したがって、自宮無しで技だけ学んでも大した成果は得られないと思われる。

作中では武林重鎮である少林寺の方証と武当派の冲虚によって、葵花宝典の誕生経緯が詳しく明かされている。亜流も含めれば本編時系列まで四種類ほどの葵花宝典が存在。なお、いずれの種でも自宮は例外なく必須条件。切らなければ最強になれない!
以下個別に紹介。

1、オリジナルの葵花宝典
前王朝の宦官によって制作。笑傲江湖の舞台設定は明言されていないものの明代であり、その前と仮定するなら制作時期は元代か宋代になる(原文では前王朝で三百年前に作られた…とあり、漢民族である登場人物達からすると元を前王朝と認識しているかは微妙なところ。大陸のウィキなどでははっきり宋代になっている)。
経緯は不明だが、オリジナルの宝典は福建莆田少林寺に流れつき、そこで長らく保管されていた。修行を試みた者も少なからずいたようだが、誰も自宮までする勇気が無く(当たり前)、修得者は現れなかった。しかし、紅葉という僧の代に、後述する宝典をめぐる事件が起きたため、後難を恐れた紅葉によって燃やされる。このため、以下で紹介する本編時系列で出てきた宝典の奥義はいずれも残本状態の不完全なものだったことになるが、それだけでも恐るべき威力を発揮しいる。もしオリジナルが現存し、それを完全に究めていたら金庸歴代作品でも最強クラスの達人になったのではないか。

2、華山派の葵花宝典
紅葉の代、どこからか宝典の存在が漏れ、華山派の岳簫・蔡子峯の二人が莆田少林寺を訪問。隙を見計らって宝典を盗み見る。じっくり解読する時間が無かったため、二人は一冊の本を半分ずつ暗記し、華山に戻って復元した。が、記憶による復元が不完全だったこともあってか、両者の解釈は食い違い、それが原因で激しく対立。後日、紅葉が派遣してきた渡元禅師より宝典の教示を受けるが、それでも互いの溝は埋まらず、一門の内部で気功を重んじる気宗、剣術を重んじる剣宗に派閥割れしてしまい、次世代の弟子も巻き込んで争うこととなる。
しばらく経って、華山派含む五嶽剣派と敵対する魔教が葵花宝典の存在を嗅ぎつけ華山を強襲。岳・蔡は死亡し宝典も奪われてしまった。結果的に誰も修行しないまま終わっている。

3、渡元禅師(林遠図)の葵花宝典
莆田少林寺の渡元禅師は、宝典武術の危険性を警告する目的で華山派を訪れたが、その際に岳・蔡の両名が盗み見た内容を聞き取り、はからずも宝典の詳細を知ることとなった。そして武芸者としての性か、本来の目的を放棄して失踪。還俗した後、華山派で得た宝典の内容に自身の解釈を加えて一つの剣法を編み出す。これこそが、本編序盤より登場し、江湖で次々と凄惨な争いを引き起こした「僻邪剣法」の正体であった。
方証曰く「岳・蔡が復元出来たのは宝典の一部に過ぎず、それを渡元へ伝えた時点でさらに半分近く内容は失われただろう」とのこと。つまりかなり断片的な状態から生み出された剣法なのだが、もともと渡元禅師は優れた武芸を誇る人物であり、不明な部分も彼のセンスによって補われた模様。全部で七十二手の構成。得物は剣以外に刺繍針も使用。
「僻邪剣法」の剣譜は出家時にまとっていた袈裟へ記す形で残していたが、子孫には決して修得しないよう遺言していた。しかし武林に相次ぐ闘争の中、華山派の岳不群が袈裟を入手。密かに稽古していたのを妻に見咎められ、華山の崖に破棄する(もっとも、この時には全て内容を暗記済みだった)。その捨てられた袈裟を拾うかたちで、本来の継承者だった林平之の手に渡った。彼もまた内容を暗記すると袈裟を処分したため、この法典も江湖より失われた。

4、日月神教(魔教)の葵花宝典
華山派から奪い取った2の宝典の残本。奪取の過程でさらに欠落してしまったらしく、方証曰く「内容としては「僻邪剣法」よりも劣っているだろう」とのこと。日月神教内で宝として受け継がれていた。華山を襲った魔教の十長老も習得したらしく、後の戦いで五嶽剣派の使い手を打ち倒した(ということはこの人達は全員切ってたことになる……オェ)。その後は久しく修行者が現れなかったようだが、クーデターで任我行から教主の座を奪い取った東方不敗が習得。その後、任我行が神教を取り戻した際に災いを招く奥義として破棄された。

ちなみに作中の修得者である東方不敗や岳不群は武器として刺繍針を使用している。しかし明らかに使いづらいうえに殺傷力も不足しており、前者は任我行や令狐冲に多数の刺し傷を与えたが致命傷に至らず、後者は恒山派の師太を(練度がまだ浅かったこともあって)殺し損ねている。一応、暗器サイズであることを活かした奇襲性はあり、左冷禅や任我行は目潰しを食らっている。でもまあ、フツーに剣とか使った方がいいのでは…。林遠図の「僻邪剣法」はその名の通り剣術メインの武術だが、作中人物が見た型の動きからすると、従来の剣術とはかけ離れた動きをしており宝典の意匠は濃く残されている。

主な修行者
渡元禅師(俗名:林遠図)
3を習得。本編時系列では既に故人。当時名高かった青城派の剣士・長生子を決闘で破り、また福威鏢局を設立して用心棒家業でも名を成した。自宮したことを隠す目的か、妻をめとり養子も迎えている。また下記の修得者と異なり精神的な異常は起きなかった模様。方証は還俗後も高潔な正義の士だったと語っており、福州の遺産も仏典や仏具が残り生前の殺人を悔悟していた。後生には恐らく型だけを模倣した粗悪な「僻邪剣法」を残し、本物が記された袈裟は見つからないよう旧宅の隠し場所に保管。

東方不敗
4を習得。日月神教の教主。前教主の任我行を奸計で陥れた後、宝典の奥義を修行。しかし精神に異常をきたし、教務をサボる、女装して男妾と遊ぶなどすっかり堕落してしまった。
が、その実力は間違いなく作中最強。この時点の武林で最高峰の使い手である任我行と冷狐冲、さらに神教内で高位の向問天・上官雲の四人がかりでも倒せず、同行していた任盈盈に至っては技量差から戦いを見ていることしか出来なかった。また神教長老の童百熊を、不意打ちとはいえたった一手で葬っている。この時、手近に得物が無かったためか戦闘で使ったのは終始刺繍針のみ。
先述した通り、4の宝典は内容的に3より劣っているようだが、東方不敗は十数年近い修行期間の積み上げがあったためか、3を学んだ岳不群よりも格上の描写がされている。
ちなみに任我行はわざと東方不敗に宝典を渡したらしいが、実際に対峙してみてその強さを思い知る羽目になった。

岳不群
3を習得。華山派掌門。君子キャラを装い、運も手伝って僻邪剣譜を入手。周囲に内緒で修行を行い、五嶽派合併時にはそれまで及ばなかった左冷禅に匹敵する実力を身につける。やはり精神に異常をきたし、卑劣な人格が表にはっきりと出るようになった。修行の腕試しついでに恒山派の二師太を暗殺、毒入り暗器を使ったり、試合前の「寸止めだヨ!」という取り決めを無視して左冷禅をボコボコにするなどやりたい放題。
しかし、終盤でついに訪れた憎き令狐冲との対決では敗北を喫した。要因はいろいろあるが、この時点で既に令狐冲が東方不敗や林平之の宝典武術を目にしておりある程度対応出来るようになっていたことが大きい。また剣術は独狐九剣、内力も吸星大法により武林でも最高クラスに達しており、法典修行後も素の強さは令狐冲>岳不群な印象。
ちなみに作中の時間経過から考えると修行期間はおよそ五ヶ月くらいになる(十一月頃に福州で袈裟を入手し、五岳派合併の大会は三月十五日のため)。もう少し時間をかければもっと強くなった可能性はあるかもしれない。
なお、修行による身体の変化はつけ髭などで誤魔化していたが、妻の寧中則にはばれていた。

林平之
3を習得。福威鏢局の跡取りにして華山派弟子。一門では三流クラスの技量だったが、僻邪剣法の修行で急激に腕を上げ、仇である青城派総帥の余滄海と渡り合った。しかし経験未熟な面までは補えず、復讐を果たしたものの失明してしまう。
やはり精神に異常をきたし、生真面目な性格は失われて傲慢で暴力的に。献身的な妻の岳霊珊をも殺してしまった。
女形みたいな仕草に加え、派手な衣装に念入りな化粧といった見た目の変化も。もっとも彼はもともと美少年で歳も若いので、東方不敗や岳不群に比べればビジュアルの気持ち悪さはまだ薄め。

宝典の内容は林平之曰く「武芸者が一度見たら、学びたい気持ちに抗えない」というほどのものらしいが、なんだかんだ誘惑を退けた人物もいる。歴代の甫田少林寺の僧達は去勢せずに修行を諦め、任我行は宝典を一目見て「馬鹿げている」と一笑した。

余談だが、葵花宝典の名称の由来は初版で明かされている。もとは達人の夫婦が生み出した武術であり、葵花というのは二人の名字からそれぞれ一字(男が葵、女が花)をとったもの。しかし金庸先生の改稿でこの設定は失われ、制作者は宦官に変更、名前だけがオリジナルのまま残るかたちとなった。