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巴金の長編小説にして初期代表作の一つ。刊行は1931年。
物語
四川の旧家である高家。中国は新しい時代を迎えていたが、高家は旧時代の思想・風習をいまなお引きずっており、新世代の教育を受けた覚新ら若者世代は、日常の中で親世代との確執を深めていく。末の弟・覚慧は、家の中で起こる様々な悲劇に絶望し、親世代への抵抗、そして家からの脱出を試みるのだが…。
中華民国初期に魯迅らをはじめとする文人が起こした文学革命では、旧習打破がテーマの一つとしてよく取り上げられた。中国人が真に近代化していくためには、清代以前の旧社会が抱えていた悪い伝統、負の面ばかりが増大化する儒教思想を覆す必要があると考えられたからである。
本作では、まさにその旧思想を引きずる親世代vs新教育を学んだ若者世代の対立が、全編通して物語のテーマとなっている。
作中では孝の強要、病気に対して科学的根拠の無いおまじないを行う、時代にそぐわぬ硬直した家のしきたりを強制する、家庭内のバカげた宴会イベント、といった旧世代の悪が、主人公である高家三兄弟をはじめとする若者の青春を潰していく。
長男の覚新は、父の命令で学業を断念し、望まぬ婚礼相手を押しつけられ、心から愛していた恋人と離れ離れになる。ようやくそれに折り合いをつけた矢先、今度は家のつまらぬしきたりによって難産の妻がろくなケアも受けられず、子供を産み残して死んでしまう。
次男の覚民もまた家長から結婚を強制され、知恵を絞って逃げ回らなければならなくなる。
三男の覚慧は孤軍奮闘し、家庭内の旧思想にことごとく反抗していくが、次々に起こる家庭内の悲劇にしびれを切らし、家を出ていく決意をする。
中華民国期の小説は、旧社会の実態を描くテーマとしてしばしば女性を主人公にするが、本作でも覚新のかつての恋人である梅、妻である李瑞珏、下女の鳴鳳など、若い世代の女性達が家庭内権力に追いつめられる。その多くが作中で命を散らし、三兄弟以上に救いがない。
本作は巴金の自伝的小説でもあり、三男覚慧は作者がモデルになっている。実際の巴金も高家のような家に生まれ、家に抵抗し、家を出ていった経歴がある。そうしたこともあってか、巴金は家庭内に蔓延する旧的な部分にことごとく厳しいメスを入れている。
旧思想の実践者たる親世代への観察眼も鋭い。彼らが意固地に家のしきたりや昔からの思想にこだわるのは、それらを心から信じているためではなく、それらを守ることが家庭内における自分の地位を維持したり、主張を押し通すための役に立つからなのだ。
長男の覚新は、自分の本音を無視していつも家庭内の権力に屈してしまう。親世代が口にする「父母や家長の言うことを聞け」「家のルールを守れ」「嫁だから夫や舅に逆らってはいけない」という”正しい”言葉に反抗する理屈を持てない。覚民や覚慧ですら、それらを打ち負かす言葉は持っていない。ただ、盲目的に家に従えば、自分の青春が台無しにされることを理解しているから、言葉は無くとも色んな形で反抗はする。結局のところ、本当の悪とは旧思想そのものではなく、それを自分の都合に合わせ好き勝手に用いる”人間”なのではないか。
この「家」には続編があり「春」「秋」と合わせて激流三部作と呼ばれる。「春」では高家の二番お嬢様である淑英が結婚を強制され、最終的に覚慧のいる上海へ逃げる話。「秋」では残された覚新らのさらなる悲劇と家の崩壊が描かれる。三編合わせると紅楼夢のような大家庭の崩壊物語になり、コンセプトもかなり似ている。が、紅楼夢の賈宝玉や林黛玉は家庭内の権力や思想の前にまったく無力だったのに対し、激流三部作の主人公達が常にそうした支配へ抵抗しようとするのは、やはり新時代の小説らしいと感じるし、そこに一縷の希望を感じ取ることが出来ると思う。