紅楼夢作中の「西廂記」はなぜ「会真記」と記されているのか

結構細かい紅楼夢考察ネタをひとつ。
中国古典小説「紅楼夢」でも屈指の名場面「読西廂」(第二十三回)。主人公賈宝玉とヒロイン林黛玉が二人で「会真記(西廂記)」を一緒に読み、プラトニックで甘美で風雅な素晴らしいひとときを過ごす。「会真記(西廂記)」は書生・張君瑞と宰相の令嬢・崔鶯鶯の恋物語である。

ところで、中国紅迷(紅楼夢ファン)の間で考察対象になるのが、この「西廂記」の名前が作中だと「会真記」表記になっている点だ。
この二つは厳密には違うのである。
「会真記」は唐代に書かれた伝奇小説である。そして「西廂記」は元代以降、その「会真記」を改編した戯曲のことを示す。従って、登場人物やストーリーは概ね同じだが、台詞や描写、場面のボリュームなどは大きく異なっている。

奇妙なのが、作中で宝・黛の読んでいる「会真記」の内容は、二人の引用する台詞などから考えると明らかに「西廂記」であることだ。紅楼夢が中国古典小説の最高峰と呼ばれるゆえんの一つに、練りに練った構成、細部にわたる小ネタの数々、作者が何度も改編をかさねついに未完のまま亡くなってしまったことによる多数の謎がある。
したがって紅迷からすると、単に作中で出てくる作品のタイトルが違うだけでも一大事なのである!(厄介オタ思考)

私はあまりこの謎に関する論文を読んでないのだけど、中国ネットで落ちている適当に考察を紹介する。

1、「会真記」と「西廂記」を宝黛の悲劇になぞらえている説
実は元ネタの「会真記」は「西廂記」と違ってカップルが破局するバッドエンドである。宝玉は本を読んだ後、自分と黛玉を作中の張君瑞・崔鶯鶯に喩えるようなことを言う。しかし、紅楼夢を最後まで読めば分かるとおり二人の恋もバッドエンドだった。つまりあえて「会真記」に変えたのは後の悲恋を示唆している、とも考えられるわけ。紅楼夢は特にこの手の暗喩に事欠かないので、一定の説得力を感じる。

2、実際に「会真記」タイトルの西廂記が市場に出回っていた説
明・清は中国における小説文化が躍進した時代である。書店や出版業の発展もそれを助長した。本来、低俗文化たる小説は文人層が触れるべきではないものだったが、書けば売れるので名前を隠して執筆する者もいた。で、当時は著作権なんかないので、文人達も自分勝手に本を書きまくる。二次創作や盗作なども当たり前。なので同じ作品でも台詞や展開が違ったりというのはしょっちゅうだし、違う作品なのにどっかで読んだようなシチュが頻繁に出てきたりする。この手の話題でよく名前のあがる明の金聖嘆が、自ら「これが水滸伝公式バージョンじゃあ!」と称して七十回本を書いたことは有名だ。
書店側も売上のため「イラストつきのダイジェストバージョン」「既に完成した物語にエピソードを足した完全版商法」「ジャンルごとに作品を抱き合わせたアンソロジー」など現代にも通じる商法を駆使しまくっていた。
そのほか、中国文化を語るうえで外せない検閲もある。たかが小説とはいえお上を馬鹿にしたり風紀を乱すような本は徹底的に取り締まる。だから「肉蒲団」みたいなエロ小説は検閲避けのためか別タイトルが何種も存在する。
というように、当時の実際の出版状況を鑑みれば「会真記」のタイトルを冠した「西廂記」があっても不自然ではない。

3、純粋にミスった説
前述したように紅楼夢は生前、作者によって何度も改編されている。それに昔は現代と違って執筆環境も整っていない。したがって単なる書き間違いである可能性もある。

ちなみに第二十三回の場面が「読西廂」と呼ばれている通り、基本的にここで読まれているのは「西廂記」であるというのが読者側の基本認識。映像作品ではわかりやすさを優先してか「会真記」が「西廂記」に改編されることもある。有名な87年ドラマでははっきり「王実甫西廂記」と表紙に記されている。