紅侠

1929年の大陸映画。監督は文逸民。現存している貴重な初期武侠映画作品でもある。白黒・サイレント。

ストーリー
さる農村にすむ善良な少女・芸姑は、祖母と二人暮らし。そこへ乱軍がやってきて祖母は殺害、彼女もさらわれてしまう。危機一髪のところを流れの達人、白猿老人に救われ、彼女は親の仇を討つべくに弟子入りするが…。

時代が時代なので、何の捻りもないド直球なストーリー。本編は九十分だが、いちいち引き延ばしが多くテンポは悪い。現代でやったら四十分くらいで終わるだろう。虐げられる善良な人々、仇討ち、ヒロインの恋愛など、武侠おきまりの要素はきちんと詰め込まれている。
武侠ものなので当然アクションが山場なのだが、これもまあ当時のレベルなのでお察しくださいといったところ。特筆すべきはヒロインの紅侠が空を飛んだり(ワイヤー技術が未熟なせいで、あからさまに吊り人形状態なのはご愛敬)、火遁の術を披露したりすることだろう。武侠ものを映像化するにあたって、既にこういうイメージが固まっていたわけだ。

そのほか、台詞の無いサイレントの映画なので、画面に近づいて叫ぶ登場人物の口から字幕が飛び出してきたり、この時代ならではの演出が面白い。

武侠映画の元祖作品なので、ファンなら一度チェックしてみるとよいかもしれない。

 

芸姑
ヒロイン。悪党の金志満にさらわれたところを白猿老人に救われ、彼に弟子入り、三年の修行を経て女侠・紅侠となる。二本の剣を武器とするが徒手でも強い。肝心の修行場面が無いせいもあって、空を飛べる原理なども一切説明がないが、それで作り手も観客も納得できるくらいこの頃から武侠の常識が浸透していたのだろう。従兄に恋をしていたが、最後は自分が救った謝家の娘を彼とくっつけて、自らは旅立っていく。
演じる范雪朋さんはもと女工。くりくりした瞳が愛らしい。本作以降も度々女侠キャラを演じている。

白猿老人
お髭がもの凄い邪魔そうな流れの達人。どっから来たどういう人なのかは一切説明されない。格好も怪しくあんまり善人には見えん。前半でこの人が敵のボスにとどめをさしていれば話も終わっていたんだけど、それは言っちゃいけない約束か。実は弟子みたいに飛べないし怪しい術も使えない。高いところから降りる時も、柱にしがみついて滑り降りる。か、かっこ悪い。

金志満
乱軍のボス。多少は腕も立つが、紅侠や白猿老人のような人並み外れた強さは無い。この手の作品らしく淫乱なキャラ。女を剥くのが趣味らしく、彼の館には下着姿の女が大勢並んでいる。ある意味、本編の見所の一つ。こういうの、当時の検閲には引っかからなかったのだろうか。

謝琼児
芸姑と同じ村に住む謝家の一人娘。金志満にさらわれ、無実の父の命と引き替えに無理矢理結婚させられてしまう。危ないところを紅侠となった芸姑に救われた。婚礼の時に被らされている冠が凄くヘン。

福貴

趙樹理の短編小説。堕落してしまった小作人・福貴の半生から農村における搾取の問題を描く。

元来真面目な人間だった福貴だが、婚礼や葬儀の費用による困窮から地主の小作人となってしまい、以後懸命に働くも、土地からの作物では生活費を稼ぐのが精いっぱい、利息がどんどんたまってしまう。いくら働いても借金が増えていくばかりなので、いつしか真面目に働くのをやめ、賭博や盗みにも手を出し、すっかり村の嫌われ者になってしまった。しかし、そもそも福貴が堕落したのは彼自身の責任だろうか?という問題提起がされたところで、本作は終わる。

当時の中国農村社会における搾取のシステムをわかりやすく解説してくれるお話。というか、システム自体は現代社会でもより巧妙な形に変化しつつ生き残っているわけで、今尚問題は解決していない。当時の中国は土地革命を行い、搾取側を悪として攻撃したが、結局それが理想的な解になったかどうかは後の歴史が示す通りである。
福貴の落ちぶれていく様は老舎の「駱駝祥子」を彷彿とさせる。あちらは農村ではなく都市が舞台だが、まじめな労働者が堕落して卑賤な仕事に手を出す部分など、共通点は多い。善人がいくら頑張っても報われない社会、というのは読んでいて辛いものだ。

それと、中国特有の部分だと感じるのが面子描写。狭い農村だからなおさらなのかもしれないが、自分のことにせよ他人のことにせよ、とにかく面子の潰れるようなことは出来ないのだ。中国では借金してでも親の葬儀を行ったりするが、これも親を大事に想っているならそれくらいのことはしないと面子が立たない、という話なのだろう。他にも、福貴の村ではお芝居が定期的に行われているのだが、その主催は福貴の地主だった(ちなみに福貴は芝居が得意で看板役だった)。ちょうど大きなお芝居祭りの時、福貴は子供が生まれたばかりでおまけに数日腹を空かしている状態だったのだが、客は彼が出てこないと盛り上がらない。そんなわけで、地主は自分の面子のためあらゆる手段を用いて福貴を芝居に参加させたりする。本編のあちこちで、自他の面子のためにままならなくなってしまう話が出てくる。こうした面子重視の社会も、福貴をダメにした大きい要因なのではなかろうか、と感じる。

 

李有才板話

 

趙樹理の長編小説。さる農村・閻家山は土地解放を成し遂げた模範村として知られていたが実際は富裕層によって貧困農民への搾取や虐待が続いていた。区からやってきた党員の楊は民衆に浸透していた「快板」を用い、事態を解決しようとする。

快板というのは、当時の共産党解放区における主要な芸能の一つ。拍子木や竹を用いた打楽器のリズムに合わせ、即興で詞を作る語り物。使われる言葉も平易でわかりやすい。内容は村の内外で起きる事件だったり、重要な人物の消息だったり、文字文化の育っていない農村おいて、快板は新聞やラジオに相当にする立派なニュースメディアだった。本作で登場する李有才のように、いわゆる優秀な歌い手も存在し、共産党が農村で政策を進めるにあたって、情報伝達にも利用されている。いくら何でもアナログ過ぎだが、共産党側からすれば労働大衆の生んだ立派な文化芸術という扱いだったようだ。

ストーリーは虐げられている農民が革命運動で悪人を倒す!という、当時の人民小説お決まりのパターン。何の捻りもない。中盤から登場する農民組合主席の楊も、例によって美化されまくりな共産党員のイメージそのまんま。そういうわけで、物語としての面白さはあまりない。
とはいえ、趙樹理作品らしく農村の描き方は深い。多くの人民小説において農民は基本的に素朴な善人だが、趙樹理作品では目先の利益だけで動いたり、考え無しに権力者に利用される無能な農民も登場する。地主たちがわざと農地の測量を甘くして税金を減らし、代わりに権力者側の横暴を黙認させるなど、農村社会の暗黒面も描写している。結局、権力者の搾取や横暴は、それに協力する大衆がいるからこそ成り立つものでもある。

趙樹理のこうした切り込み方は、当時の農村問題をわかりやすく可視化させた反面、共産党や労働者への非難とも取れてしまう。後に彼が文化大革命で攻撃されてしまった片鱗が、作品のあちこちに宿っているように感じられた。