絳紗記

三省堂書店オンデマンド 東洋文庫「断鴻零雁記」

価格:4,180円
(2022/8/29 21:14時点)
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中華民国初期の作家・蘇曼殊の中編小説。
清朝末期。二人の青年と、彼らをとりまく女性達との悲恋を描く。

一応、鴛鴦胡蝶派の作家として分類されている蘇曼殊。本作は代表作の「断鴻零雁記」と殆ど同じコンセプトで、世の流れに適合できない愛国青年が、綺麗なおにゃのこ達と愛だの死ぬだのといった甘美なイチャイチャを繰り広げるお話。身も蓋もない言い方だけど本当にそんな感じだからしょうがない。国家が大変な時に恋愛にうつつを抜かすとは何事じゃ!と当時の文壇から叩かれたりもした鴛鴦胡蝶派だが、一方で大衆はこういう進歩的なロマンスを強く支持しており人気のジャンルでもあった。いつの時代も、お堅い文学よりエンタメ路線がウケるのは変わらない。

主人公の曇鸞と彼の友人である夢珠はどちらも作者の蘇曼殊がモデル。先進的な教育を受けながらもそれをいかせずうろうろするだけの曇鸞。特殊な出自で世を儚み、出家をしながらも俗世の愛に未練がましい夢珠。どちらも当時の青年にありがちな悩みを抱えた、感情移入しやすい存在だったのでは。
短い小説にも関わらず、ヒロインが続々出てくる。しかも今時のラノベでもそうはならんやろと言わんばかりの、男に都合のいい(美人で、性格もよく、特に理由もなく主人公に惚れる)造型のヒロインばかり。もう少し何とかならなかったのか。「断鴻零雁記」もそんな感じだったので作者はこういう女性がタイプなのだろう。
主人公がアレなのでストーリーは暗いし終わり方にも希望が無い。鴛鴦胡蝶派の作品は悲恋ものが多いので、これまた当時のセオリーといったところか。主人公の退廃的な姿、作者自身がモデル、といった作風は郁達夫あたりとよく似ているが、郁達夫は蘇曼殊の作風を結構手厳しく批評していたりする。うーん、何となく同族嫌悪でないかと邪推してしまう。

作者の父親は買弁であり、シンガポールや香港を舞台にした商取引の様相などが作中で描かれているのも、そうした背景によるものだろう。このあたりは当時の空気を知ることが出来て面白い。

老舎「私の一生」

老舎の中編小説。
主人公の私は、とある事件をきっかけに車引きと並ぶ下層階級の仕事・巡査になる。自分の良心に従って仕事に励む私だが、歪んだ社会の中ではそれもうまくいかず、絶望に追い込まれていく。働きに働き、年をとって死の淵に立たされた時、私は自らの一生について語り始める…。

 

老舎の労働小説の代表作はいうまでもなく「駱駝祥子」だが、本作もそれに匹敵する傑作だと思う。一人称形式で話がわかりやすく、物語もコンパクトにまとまっている点などはむしろ「駱駝祥子」に勝っている。

車引きと巡査は老舎小説によく登場する職業。どちらも社会の底辺層が就く仕事で、給料は安く出世も見込めず世間からは侮られる。親が車引きや巡査だど、その子供はもれなく同じ仕事に就き、いつまでも貧困から脱出出来ない。
巡査といっても現代日本人がイメージする警察とはまったく違う。警察や軍の下部で働く民間の見回り役みたいなもの。一応街の治安を守る存在とされているが、なにせ薄給で装備もろくに支給されないため、ちゃんとした治安維持など出来るはずもなく、誰もがテキトーにそれっぽく見えるよう仕事をするだけ。例えば賭博を取り締まるのでも、現場に踏み込むのではなく関係のない弱そうな人達をしょっぴいてくる、街で火事や民変が起きたらとりあえず終わるまで放っておいてそれから現場に向かう、などなど。
庶民もそんな巡査の実態を知っているから、平時も緊急時も彼らなどあてにしない。そのうえ、武器のある兵士や上部組織の警察が度々理不尽な要求を振っていじめてくる。
主人公はもともと真面目な表具師だったが、様々なことがきっかけとなり、巡査の仕事につく。字が多少読めたので、車引きよりは体裁がいいだろうというのがその理由だった。幼い子供達を養うべく生来の真面目さで頑張るが、組織や社会のいい加減さに振り回されてうまくいかず、善人であるだけ損をしていつまでも浮かばれないまま。
主人公が労働に励むほど落ちぶれてしまう、という展開は「駱駝祥子」と同様だが、社会の腐敗やデタラメさを認識出来ないままだった祥子と異なり、本作の私は巡査という職業の馬鹿げた実態や、清を打倒した新国家・中華民国の歪みなどを理解している(理解しているぶんだけ、絶望も倍増してるわけだけど……)。私は自分の無力を嘆き、ただ社会が良い方向に変わってくれと願うばかりになる。
作中全体を通して労働小説の王道を描いており、貧困の再生産、一度落ちぶれたら二度と浮かび上がれない社会、というのは今の日本に通じる部分も沢山あって身につまされるのでは。

 

「茶館」「四世同堂」など多数の傑作がある老舎作品の中では埋もれがちな一作だと思うけれど、「駱駝祥子」とセットで是非読むべき作品だと思う。学研版の翻訳は解説が非常に丁寧。巡査の実態も詳しく補足されているのでとってもオススメ。