先日中国映画週間にて鑑賞した「紅楼夢之金玉良縁」。かなり原作をいじった部分があるので、気になった部分をまとめて紹介&解説してみようと思います。
映画を見てよくわからなかった方、これから見る参考にしたい方、よろしければ見てみてください。ネタバレ含んでいるので、予備知識なしで見てみたい方はプラウザバック推奨。
時系列について
本作は物語の順序がかなり入れ替えられている。大陸でも多かった「原作と乖離している」という批判の理由も、これによるところが大きいのでは。
ざっくりとした場面分けですが、以下に書き出してみます。
1回しか通しで見てないので、いくらか曖昧な部分もありますがご容赦を。
上から冒頭順。
雪山の宝玉(原作120回以降)
黛玉の実家帰省(原作14回)
返済打合せ(原作になし)
寧国邸の花見~太虚幻境(原作5回)
ベッドでの宝黛いちゃいちゃ(原作19回)
宝釵上京(原作4回)
黛玉の嫉妬+史湘雲(原作20回)
カップル西廂記読書(原作23回)
劉ばあさんの来訪(第6回+40回)
大観園設営・元春省親(第17~19回)
凧揚げ(原作80回)
宝玉紛失(原作95回)
偽装結婚・黛玉の死(原作96~98回)
ラストの回想は第3回、上京直後の場面(ラスト以外にも中盤で挿入あり)。
上記の通り、かなり大胆に変更されているのがわかると思う。中盤の抜けが大きいように感じるかもしれないが、これは時間の限られる映画版や舞台版だとよくある現象。中盤は宝黛釵よりもお家騒動や日常の事件が話の中心になる。
本作がこのように物語を組み替えているのは、宝黛の悲劇をスムーズに見せる制作側の意図があったのだと思う。特筆すべきはレビューでも書いたように宝・黛の関係性が序盤でほぼ出来上がっているところ。そこから二人目のメインヒロインである薛宝釵が合流するので、彼女は作劇上完全に恋の邪魔者にしかなってない。原作では宝釵の合流が早いため、黛玉は宝・釵の二人が仲良くなることに何度も嫉妬するし、中盤の慧紫鵑まで二人の仲ははっきり固まらない。
宝釵も大人の都合で無理矢理宝玉へ嫁ぐことになった被害者なのだけれど、映画では宝黛の恋模様に比重が置かれて、宝釵の心情が全然描写されなかったのはやはりマイナス部分。
そのほかも時間の都合で説明放棄している場面が多々あり。
・冒頭のさまよう宝玉の経緯
原作の最終回以降にあたる場面だが、映画の最後で冒頭に繋げるシーンを作っていないので多分原作未読だと意味不明だと思う。原作では賈家没落→宝玉は科挙受験の後に失踪→出家して俗世を去る。という流れ。
・太虚幻境
あまりにも内容をはしょりすぎているので何がなんだかわからない人も多いだろう。原作未読で映画を初めて観た方で、夢の可卿と宝玉の二人が何をしたかわかる人、いるんだろうか?
・紛失した通霊宝玉の行方
当然のように説明無し。原作では突然行方不明になり、宝玉結婚後、僧が届けてくる。映画では王夫人が結婚謀略をすすめるため持って行ってしまったのでは…と匂わせたようなシーンも見られるが、結局真相まで描かれなかったので不明。
・賈家の最後
前編通して賈家の苦しい経済状況を描いている割に、その末路に触れなかったのもいかがなものか。
その他、色々映画を理解するうえで知っておくとよい知識、あとは引っかかる箇所
・最初のシーン、宝玉が雪中の草に語りかけるが、黛玉の前世は絳珠草という仙草。黛玉は天界で枯れそうになっていた時、前世の宝玉(神瑛使者)に甘露をかけてもらったことがある。現世ではその恩として涙を返す定めになっていた。宝玉は原作の116回で再び太虚幻境を訪れ、諸々の因縁を知る。劇中ではここらへん一切の説明が無い。いきなり初見の観客を突き放しまくりなスタートを切り、結局全編このノリなのだから知ってる側からしてもちょっと唖然としてしまう。
・最初の宴会で盗み食いを働いた少年は宝玉の腹違いの弟・賈環。なんか主役っぽい登場のムーブだけどこの後殆ど出てこない。宝玉と違って容姿才能性格全部ダメなキャラで、作中何度も騒ぎを起こす。
・太虚幻境で宝玉は可卿という女子に会い、セックスのやり方を手ほどきしてもらう。目が覚めた時に襲人が「どうして濡れているんです?」と尋ねたのは夢精したから。あの水に溺れる演出でわかった人いるのかな?
・秦可卿は舅の賈珍と不倫関係にある。原作では後にそのことが原因で可卿は自殺(原作13回)。しかし映画では二人がどうなったのかは描かれず、ただ汚い内情を暴露したのみ。中盤で出てきた老使用人・焦大が嘆いていたのはこの二人のこと。
・宝玉が黛玉へプレゼントした数珠は、賈家と懇意な貴族・北静王が宝玉を気に入って贈ってくれたもの。黛玉は「男のものは全部汚いから」と受け取らなかったが、これは要するに「(あなた以外の)他の男の持ってたものはいらない」という高度なツンデレ仕草である。
・何度かうつる二頭の獅子は寧国邸の大門にある像。作中のとある人物が「寧国邸で汚れていないのは門前の獅子だけ」と口にするなど、ある意味腐敗の象徴。
・黛玉が史湘雲をけなして席を立つ場面。湘雲は舌っ足らずなので数字の「二(er)」が上手く発音出来ず「愛(ai)」になってしまい、宝玉を「二哥哥(二番目の兄様。宝玉は賈政の次男)」ではなく「愛哥哥(ラブ兄様)」と呼ぶ。字幕は「二の兄様」になっていたが、ここらへんは原語ギャグを翻訳するのが難しいところ。
・宝玉と黛玉が一緒に読んだ本のタイトルは「会真記」。一般には「西廂記」の名称の方が有名だろう。中国の才子佳人劇では一番有名な作品。
黛玉に何を読んでいるのかきかれて宝玉が最初「大学だよぉ」と誤魔化した理由は、当時小説本の類が低俗な娯楽で教養人が読むべきものではないとされていたから。西廂記は当時では御法度な自由恋愛を描いているので、まあ現代にわかりやすく置き換えればエロ本みたいなもの。じゃあ二人はエロ本読んで素晴らしい!と感動してたのか、とか突っ込まれそうだがこれも細かく説明すると、小説も何百年かけて多数作られるうちに、一流文人すら虜にする傑作が生まれてきていて、西廂記はその一つだった(もちろん、表向きは教養人の面子もあってまともに文壇で評価されたりはしないんだけれども)。
字が読めない庶民は、講釈などを通して小説を堪能するので物語にばかり注目するけれども、文人達はむしろ文章の方に目がいく。宝玉と黛玉が感動したのも無論後者。
もともと科挙嫌いだが詩作など文書の才能がある宝玉は、こうした小説の良さを見抜く資質があったというわけ。また黛玉も実家で父親の趣味から本格的な学問教育を施された身なので、良い文章がどんなものかを理解している。さらに言うと彼女は蘇州育ちなので学問のスタイルも頭ガチガチの教養人ではなく自由を重んじるタイプ(それは彼女が作中で述べる詩作論や実際に作った詩を見るとよくわかる)だから、宝玉と同じく小説の良さを理解できた(一方で、物語についてははしたない、ともコメントしている)。
ちなみに、どうしてこんな本を宝玉が持っていたのかというと、退屈そうにしていた彼のため下男がこっそり街で買ってきてあげたから。
…たった一場面説明するのになんでこんなに長い文章を書いてるんだ俺は。
・雨の中、誰も門を開けてくれないことにいらだった宝玉は腹いせに襲人を蹴ってしまう。映画ではその後何事もなかったが、原作だと怪我がもとで襲人はしばらく寝込んでしまう。ついでに言うとこのあたりで襲人が結構野心的でただのいい娘でないことが明かされる。
・通霊宝玉の正体は女媧が天地を創造する際に沢山の石を用いたが、1個だけ余ってしまったもの。下界におりてみたいという願いを聞き届けてもらい、宝玉と一緒に現世へ転生。赤ん坊だった宝玉の口に含まれていた。紅楼夢とはこの通霊宝玉の見聞きした物語であることが原作第1回で語られる。基本的に宝玉とは一心同体の存在であり、宝玉の体調が悪化すると玉もくもったりする。周囲の大人達が命の玉と呼んで大事にしているのはそのため。
・黛玉の最期の台詞「宝玉、你好…」。これは「好」の続きが途切れているので、「宝玉,你好狠!(宝玉さん、なんて酷い人なの!)」「宝玉,你好好活着(宝玉さん、お元気で!)」と二通りに意味がとれる。映画字幕では前者。原作では紫鵑が後者の解釈をして、宝玉を長く恨んだ。
大体こんな感じかな。
制作側の都合とはいえ、原作いじりや説明不足が非常に多い。だから原作派の紅迷が怒るのも無理はない。原作未読派ではついていけない。
とはいえ、映像表現は変に奇をてらっていないし、初心者とか紅迷へ気を遣ったり媚びを売ったりせず「新しい紅楼夢」を作ろうとしたのはとてもよく伝わる。実際、宝黛の恋愛エピソートとして見るならかなり良い出来だと思う。
なので、改めて本作を一言で評するなら「二次創作として見るなら80点、原作映像化として見るなら25点」といったところだろうか。