【中古】 中国民話集 岩波文庫/飯倉照平【編訳】 【中古】afb 価格:198円 |
中国各地に伝わる民話を四十編ほど収録した話集。
中国小説の本流が文人層(正確に言えば、小説もまた文人の本流から外れたものであり、書き手の多くはエリート崩れの知識人ばかりなのだけれども)によって作られてきたのに対し、民話は純粋に庶民の間で語り継がれてきたもの、その内容にも色々と違いがある。大雑把にいえば、民話はあらゆる点で本流の古典小説より自由である。
例えば小説は、それが官の話であれ民間の話であれ、大抵もとになる史実が存在している。いつの時代の、某県の某という人が云々、といったように人物がきちんと紹介され、イメージとしては人物の伝記に近い。民話はそこまで詳細な記述をせず、ただ男がいた、女がいたといった程度しか書かない。時代も適当だし、神様も神様としか書かず、それが仏教なのか道教なのかも判別できない。
他にも、古典小説は語り口のスタイルもある程度決まっている。長編の章回小説を読めば、必ず話の末尾は「この続きは次回にて」で締められるし、短編の説話小説なら入話→本編→終場詩が構成の定型パターン。民話はそのあたりも自由。ルールなんて無いも同然、前置きなしで物語が始まったりする。
ストーリーにおいては、やはり官民の視点差が如実に現れているように思う。小説だと、農村を舞台にした話でも大抵官が登場し、遺産相続や土地問題を清官が解決するなど、官は正義の味方になりやすい。しかし民話における官は、強大な支配者であり、ストーリー中では庶民を苦しめる悪としての描写が目立つ。
そのほか、文人層達がお話を書くうえで扱いに遠慮しがちな皇帝や神様についても、民話はまったく遠慮がない。お話の中で、閻魔大王や皇帝をあっさり殺してしまったりする。民話に出てくる人間は、善悪に縛られない、欲望に忠実な素朴な人々ばかりだ。ありのままの人間の姿がそこには描かれている。文人層の書く小説が、封建制度や儒教思想のせいで、かえって人間らしい人間を描けなかったりするのと対照的だと思う。
そのほか、民話を読んでいて興味深いのは、まったく同じようなストーリーが周辺諸国のみならず、殆ど接点の無い西洋などでも作られていることだろう。家族、貧富、因果応報……人間、根源的に考えるのは同じということだろうか。