金庸考察 射鵰英雄伝 丘処機と江南七怪の十八年を賭けた勝負について考えてみた

金庸の代表作である武侠小説「射雕英雄伝」。
その物語の序盤で、全真教の達人・丘処機は殺された二人の友の妻を探す途中、些細な行き違いから侠客集団の江南七怪と敵対。二度戦っても決着にならなかったため、丘処機は新たに一つの勝負を提案する。それは連れ去られた二人の夫人を捜し出し、彼らの子供に武術を教え十八年後試合をさせる…というものたった。
壮大なスケールの物語に相応しい幕開けなのだが、私はずっと気になっていたことがある。どうして丘処機は江南七怪にこんな回りくどくて長ったらしい勝負を提案したのだろうか。実はそこには、本編では言及されていなかった恐るべき真実があったのだ。
というわけで以下、語っていきます。

まずは事の発端から整理しよう。
丘処機は旅の途中で知り合った二人の青年、郭嘯天と楊鉄心と友の契りをかわす。二人は義兄弟で、ちょうどどちらの夫人も子供を身ごもっていた。ところが悪徳官吏の段天徳に二人は殺され(鉄心の方は生きてたことが後に判明)、夫人は誘拐されてしまう。怒りに燃える丘処機は段天徳を追うが、相手はたくみに逃げ回り、法華寺の焦木大師のもとへ「狂暴な道士に追われている」と嘘をつき匿ってもらう。
焦木は自分の実力を遥かに上回る丘処機を止めるため、旧知の江南七怪に助力を依頼した。
かくして、丘処機と七怪は酒楼で対面。しかし話しても話がこじれるばかりなので、両者は勝負をすることになった。

一戦目は、丘処機が持ってきた巨大な鼎の酒を飲み干せるかの腕試し。七怪は丘処機が投げつけてくる鼎を、それぞれの特技を使って受け止め、酒を飲み干す。いったんは丘処機が負けを認めたものの、結局段天徳探しのため法華寺に入らせろと言い出したので交渉は決裂してしまう。

二戦目は法華寺での直接対決。江南七怪に加え焦木も含めた八対一の激戦にもつれ込んだが、結果は相打ち。途中で毒を浴びた丘処機は、戦闘後解毒剤を七怪に処方してもらったことを理由に、自分の負けを宣言する。が、七人がかりでほぼボコられる一方だった七怪は納得せず、三戦目の勝負をすることになった。

三戦目が、冒頭でも述べた例の勝負である。内容は以下の通り。
1,七怪は郭嘯天の夫人、丘処機は楊鉄心の夫人を探す。
2,二人の夫人は身ごもっているので、子供が生まれてきたら武芸を教える。
3,十八年後、子供達を試合させて決着をつける!

さて、こうして改めて並べてみると、三戦目はあまりに内容を盛り過ぎというか、どうしてここまでやらなければいけなかったのか?という疑問がわいてくるのではないだろうか。
この勝負を提案した丘処機の立場になって考えてみよう。
一戦目と二戦目が発生した原因は、要するにしょうもない勘違いと話し合い不足からである。特に二戦目では両者が死にかけたうえ、騒動の元凶である段天徳にはまんまと逃げられてしまった。とんだ失態である。江湖でうわさが広まったりしたら、地元で有名な七怪にとっても、天下に名高い全真七子の丘処機にとっても肩身が狭いではないか。
つまり三戦目の勝負は、そうした醜聞を、よりスケールの大きい義侠の行いで上書きしてしまおうという意図があったのではないか。「七侠と丘大侠は忠臣の遺児を探して立派な武芸者に育てようとしているそうだ」となれば、江湖の人々もそれは素晴らしい!と賞賛して、前座になったしょうもない一件もスルーしてくれることだろう。
それに、七怪は勝負ごとにかけてかなり執着心が強い集団である。二度の勝負を経て、丘処機もそうした気質を心得ていたはず。勝負をやたら面倒くさくしたのは、これだけ時間と手間をかけまくれば勝っても負けても「あ~疲れた。まあ十八年も頑張ったからもういっか」と気持ちの落としどころがつくだろうと、考えたのではないか。

なるほどさすがは全真七子の丘処機、ちゃんと七怪へのフォローも考えてこんな勝負を提案したんだね!
……と、納得するのは早計である。
何故ならこの勝負は、丘処機が圧倒的に有利になるよう仕組まれたゲームだったからだ。

え?どこが?と思う方もいるだろう。確かに一見すると公平な感じの勝負だ。が、以下を読んでいただければ、これがめちゃくちゃ不公平なバトルとして仕組まれていた事実がわかるはずである。

1,教える武術の質が不公平
この三戦目の勝負は、丘処機と七怪が生まれてきた子供にそれぞれ自分たちの武術を教える、といったことが内容に盛り込まれている。実はこれがそもそも不公平なのだ。
全真教の武術は、開祖の王重陽がかつて天下第一の称号を得たことからわかるように、大変強力なものである。とりわけ内功に関しては、敵味方問わず作中のあらゆる武芸者達に絶賛されている。
一方の江南七怪。すりや馬術などそれぞれ見るべきところはあるものの、外功・内功どれをとっても名門の全真教に及ぶものではない。
つまり子供へ教える武術自体に、圧倒的な差があるのだ。

2,教える弟子の素質が不公平
法華寺での話し合いでは、七怪が探すのは郭夫人、丘処機は楊夫人、という取り決めになったが、これがそもそもクサイ。七怪が前者になったのは、法華寺の戦いで段天徳が彼女を連れていてその姿を目撃していたからなのだが、この時彼女は兵士の格好に偽装され、皆はよく顔を認識出来ていない(盲目の柯鎮悪は声を聞いたので絶対に忘れない、と言っていたが、結局子供見つける役には立たなかった)。
つまり、丘処機も七怪も殆どノーヒント状態なので、どっちがどっちを探そうとも苦労の度合いは変わらない。本当に公平にやるのであれば、くじ引きで探す相手を決めてもよかったはずだ。しかし、丘処機はあえて何も言わなかった。なぜか。
武術を習得するには、本人の素質も非常に重要である。事実、苦労して郭靖を見つけた七怪は、その素質の無さにガッカリしており、実際の修業でも相当手こずっていた。
恐らく丘処機は、郭家と楊家のうち、教えるなら後者の方が有利になる、とはなからわかっていたのだ。というのも、彼は牛家村で二人の父親と会っており、楊鉄心とは手も交えている。七怪でさえ、出会ったばかりの郭靖の素質不足を見抜いたのだ。達人の丘処機なら猶更だろう。郭・楊の二人の挙動などから、楊家の方が武術の素地として優秀だと判断したに違いない。親の素質は、そのまま子供にも受け継がれるはず。そして案の定、郭靖と楊康の才能差は歴然としていたのである。

3,組織力の差が不公平
七怪は郭靖を見つけてから、その指導にかかりきりで、蒙古に留まり故郷へ帰ることも出来なかった。
十年目のある日、突然丘処機の弟子・尹志平が手紙を届けてくる。そこでは「近況いかがですか~。こっちも楊家の子を無事見つけましたぁ。てなわけで約束通り対戦よろ!」と述べる以外に、蒙古で張阿生が亡くなったことまで言及していた。恐るべき情報収集力だが、これにはもちろんわけがある。
この時期の全真教は絶賛勢力拡大中。七子は多くの弟子をとっていた。丘処機も各地に散らばる仲間から、色々情報を聞き及んでいたのだろう。また、尹志平が(師匠の許可を得ない自己判断とはいえ)郭靖と腕試しをしたことで、うまい具合にその実力を偵察出来てしまった。
丘処機本人は一対一のつもりかもしれないが、仲間が大勢いればそれは自然と差に繋がってしまうのだ。七怪は楊家の子の情報を何一つ持ってないのに、こっちは郭靖の実力が筒抜け。ひどい話ではないか。

要するに、丘処機は一流の武術と素質のある弟子とついでに組織力までも使って戦おうとしてたわけである。これじゃ一介の武芸集団に過ぎない七怪が勝てるはずもない。察しのいい柯鎮悪や朱総あたりは、手紙をもらった時点で「しまった! あのクソ道士にはめられた! 全然公平な勝負じゃないじゃん!」と思ったに違いない。
もっとも、丘処機も勝負を提案する段階で「武芸だけでなく智力と忍耐力を競い」云々いっているので、有利な結果になったのも「智力」を用いただけなんですよぉ~と言い逃れ出来なくはない。なんという策士。

こんだけ不公平なので、全真教側でも「こりゃイカン」と考える者が出たのは当然のこと。教主の馬鈺は再三勝ちを譲るよう丘処機を説得していたことが、作中でも述べられている。多分こんなやり取りがあったのだろう。
馬「丘師弟。天下の名門たる全真教が、こんな不公平な勝負をしてはならん。はやくあちらへ勝ちを譲って詫びてきなさい」
丘「何を言います師兄。私はもう二度も七侠に負けているのですぞ! このうえ三度目の敗北を喫したら、それこそ一門の恥。それに七侠も頑固ですからな。試合もせぬまま勝ちを譲ったところで納得しますまい。何より十八年もかけた大勝負。約束はきちんと果たさねばならんのです!」
馬「(うーむ、言うだけ無駄か。七侠も大変よな。馬鈺、動きます)」
そんなわけで、馬鈺は教主の任もほったらかして、七怪のフォローのために砂漠で数年も過ごす羽目になるのである。

やがて、ついに約束の十八年目がやってきた。この日に備えて万全の対策をしていた丘処機は、自分の勝ちを確信していただろう。
が、予想外のことは起こるもの。
趙王府における戦いで、楊康は全真教の師叔を傷つけたのみならず、自分の産みの親を見捨てて売国奴になりさがった。
丘処機は武術の方こそしっかり鍛えたが、人格はまるで育てられていなかったのである。
かくして、三度目の勝負で本当の敗北を認めることとなった。彼もこの一件を経て、深く反省したに違いない。武芸者に必要なのは力の強さではなく心の強さなのだ、と。

……と思いきや数十年後にまた同じようなやらかしをしてしまうのだった。まるで成長していない……。