ゆるゆる金陵十二釵考 秦可卿 その②

前回の続き。

秦可卿には、その死因以外にも様々な謎が残されている。
まず彼女、出自が相当にアヤシい。父親は秦業という役人なのだが、そもそも秦可卿は彼の実の娘ではない。作中では孤児であると明記され、引き取られた時は彼女と他に男の子もいた(ちなみに、男の子の方は小さい頃に亡くなってしまう)…と、少ない出番の割に経歴はやたら詳しく描かれている。また秦業は後、高齢になって一人男児をもうけている。これが本編で宝玉と親友になった秦鐘である。
賈家は大貴族である。家庭内の序列や扱いは、本人の人柄・能力以上に家柄で大きく左右される。秦家はどうかといえば、かなりビンボー。秦鐘は、一族の塾へ通う金を集めることにも事欠いていた。いざ塾へ通ってみても、あいつの親ははたかだか賈蓉の嫁じゃないか!とバカにされている。
 ところが、秦可卿本人の描写を見る限りだと、とてもそんな家の出身とは思えないのだ。
 まず彼女、スペックが相当に高い。第五回、退屈して昼寝をしたがっていた宝玉の面倒を、秦可卿が見る場面。秦可卿は宝玉のために特別の休憩場所を用意していた。そこは「学問を頑張ろうぜ」「人を理解するのに文章は大事だぜ」などの四角張った文人臭い文句の入った画や詩が並んでいた。いくら大貴族の家に嫁いだとはいえ、本人にある程度教養が無ければ、こんな部屋を用意出来るはずはない。前述の通り、お役人の家とはいえ秦家はびんぼーである。秦可卿は、どこでそんな高い教養を養えたのか? 一方、秦可卿本人の部屋は、則天武后、趙飛燕、楊貴妃などの歴代の高貴な女性達にまつわるグッズが並ぶ。これらは、何を示唆しているのだろうか?
 他にもある。死んだ直後、王熙鳳の前に姿を現した時だ。秦可卿は衰退していく賈家を救うため、なんと不動産運営のテクニックを熙鳳に伝授する。紅楼夢には才覚溢れたヒロインが多数登場するが、その中で家庭経営の手腕を持った人物は、数えるほどしかいない。王熙鳳はその一人だが、秦可卿はその彼女に面と向かってアドバイスを授けているのである。
 もちろん、人柄の方も円満。殆どのキャラが何かしら陰口を叩かれたりする中で、彼女を敵視する人物は誰もいなかった。最高権力者の史太君は、宝玉の面倒を任せきりにするほど信頼を置いている。
 さらに、容姿だってずば抜けている。珍が不倫を繰り返していたのは見た目はもちろんだが、あっちのテクニックも凄いのかもしれない。
 これらの描写を踏まえると、孤児になる前の彼女は相当凄い家に生まれていたのではないかと思われる。
 それを裏付ける設定もある。太虚幻境における可卿の地位は、仙女達を束ねる警幻仙姑の妹。滅茶苦茶地位が高い。ご存じの通り、紅楼夢は現実と架空が表裏一体の物語。仮の世界における可卿が高い地位を持っているということは、現実の彼女もまた同じである可能性が高いわけだ。
これらの点を踏まえると、その死がぼかされた理由もさらに説得力が出てくる。凄い家柄の人間だからこそ、不倫のこともそのまま描写するなんて出来なかったのだ。

 さて、最後に彼女と縁の深い登場人物についても触れておこう。それは賈宝玉と王煕鳳である。この二人、秦可卿が亡くなった晩に、その死をそれぞれ感じ取っている。宝玉は吐血したし、煕鳳は夢を見て可卿の亡霊と話した。そんな二人との結びつきを、改めておさらいしてみよう。
賈宝玉と秦可卿は、家系図だと叔父と姪の関係にある。え?宝玉の方が年下なのに?と思ってしまうかもしれないが、これは宝玉と同世代にあたる賈珍の息子・賈蓉と可卿が結婚しているためにそうなっているのだ。中国の大家庭だと結構ありがちな現象である。それはともかく、宝玉にとっての可卿はどのような存在だったのだろうか。第五回の描写を見てみよう。まず、宝玉の可卿に対するデレっぷりが凄い。同じ人妻の煕鳳や李紈らと比べれば、可卿への態度が明らかに違うのは一目瞭然。しかも可卿の部屋へ平然と休みに行く。儒教社会では男女親しくせずが基本である。宝玉はもともとそうした礼儀に関して緩い方だが、相手が未婚で幼い黛玉や宝釵ならまだしも、可卿は既婚女性である。史太君の寵愛がなければ、恐らく二人が一つ部屋で休むことは許可がおりなかったはずだ。そして決定的なのが、太虚幻境での描写。宝玉はここで警幻仙姑に一人の女の子を紹介される。それが可卿だ。まるで黛玉と宝釵の良さを合体させたような子と描写されている(しかも幼名が兼美だという。わかりやすい)が、とどのつまりそれが可卿ということだろう。そして宝玉は、可卿と初めての性体験をする。
つまり宝玉にとって、可卿は初恋の人なのだ。紅楼夢のメインヒロインは林黛玉・薛宝釵だが、本編を読んだ方ならご存じの通り、二人は容姿・人格に激しい偏りがある。病的な痩せ形の黛玉、デブ豊満体型の宝釵、情熱的だが偏屈な黛玉、温厚だが理屈っぽすぎて冷酷に見える宝釵、そんなわけで好き嫌いの分かれるファンも多い。可卿はそんな二人の良さを兼ね備えた理想の女性として描かれている。宝玉にとって、初恋の人だった可能性が高い。
さて、夢における可卿とのセックスは、本編だと夢精したことになっている。紅楼夢はもともと、曹雪芹自身の半生が反映された物語であり、宝玉少年はイコール雪芹である。ということはつまり…いや、邪推するのはこれ以上やめておこう。

さて、可卿と深い繋がりを持つもう一人が王煕鳳である。この二人も一世代分の差(煕鳳は王辺世代の賈璉、可卿は草冠世代の蓉蓉の嫁)があるのだが、年齢的にはそこまで変わらない。病気になった可卿を見舞うシーンから、二人は一見、親密な関係を築いているように見える。
 だが、果たして本当にそうだろうか?
 王煕鳳は激しい気性の持ち主である。上昇志向も強く、本編では史太君の寵愛を盾にどんどん家庭内での権力を手にしていく。また嫉妬深くもあり、後半では夫の妾になった尤二姐をあの手この手で自殺へ追い込んでしまった。
そんな彼女にとって、可卿は果たして仲良く出来るような相手だろうか? むしろ、家庭内における最大のライバルではないか。何せ可卿は美貌もあり学問の素養もあり、上から下まで家中の人間に好かれている穏やかな人格者。対する煕鳳は激しい性格のせいで内外から陰口を叩かれているし、学が無いので字も余り読めない。容姿は美しくとも、夫はしょっちゅう不倫を繰り返している。
とりわけ重要なのは、若嫁の可卿が男児を産む可能性を持っていることだ。封建社会の中国において、跡継ぎになる男の子を産むのは、嫁の重要な義務である。男児がいれば、それだけで家庭における圧倒的なアドバンテージを得られるのだ。煕鳳は本編でいつも男の子を所望しており、そこには焦りすら感じられる。
これらの要素を踏まえると、煕鳳にとって可卿はむしろ排除対象に近い。本編における煕鳳の行動も、善意ではなく悪意を持っていた可能性が高い気がする。
日頃から親しく接していたのは、言うまでもなく寧国邸の内情を探るためだ。腹黒い感情を隠してにこやかに振る舞うのは煕鳳の十八番であり、尤二姐を自害へ追い込む時も、最初は滅茶苦茶優しげに接して相手を油断させていた。可卿の死後、煕鳳は堕落していた寧国邸の改革に取りかかるわけだが、彼女は寧国邸が抱える人やシステムの問題を正確に把握していた。どこからそんな情報を得ていたのか? 煕鳳には平児をはじめとした腹心も多いが、それでも栄国邸の外まで影響力を伸ばせるとは思えない。やはり可卿が情報源だったと考えるべきだろう。歳も近く、聡明な可卿ならうってつけの相手だ。本心を隠しつつにこやかに接し、彼女から寧国邸の情報を得ていたのではないか。
さらに邪推すると、煕鳳は可卿の死にすら関わっていた可能性もある。煕鳳は第七回にて「舅が息子の嫁を犯す」という発言を聞いた人物でもある。こんなことを耳にしたら、人間たるもの誰だって多少は探りを入れたくなるはずだ。で、ちょっと調べてみたらそれはなんとあの可卿のことらしい。折しも、可卿が病気にかかったので見舞いに行ってみる。もちろん、事の真相を確認するためだ。案の定、可卿はもごもごして「もう生きてはいられません」などと口走る。ははん、やっぱりそういうことか。この時の煕鳳は心の中でガッツポーズを決めたはず。最大のライバルを排除できる弱点を見つけたのだから。かくして、彼女は適当なタイミングで珍に密通のチャンスを促す。ついでに侍女もそそのかして現場がばれるようにしておく。これなら自分の手を汚さず、可卿をスムーズに排除出来る…。
いくら何でも邪推し過ぎじゃない?と思われるかもしれないが、煕鳳は直前の第十二回で自分に懸想してくる一族の若者・賈瑞をこれまた計略で死に追い込んでいたり(もっとも、瑞の死は風月宝鑑で幻の煕鳳をおかずに自慰しまくったことが直接の原因なので、煕鳳としては殺す気まで無かったかもしれんけど)、その後も煕鳳関連で死んだ人間は少なくない。煕鳳の脅威となりうる要素を多数持ち合わせた可卿が、安泰のまま暮らしていけた、と考えることは難しいのではないか。

ちなみに、ドラマや映画では作者の原案が反映されやすく、可卿が自殺に至る経歴も明確にされている。もはや紅迷のみならず視聴者にとっても、可卿まわりのミステリーは常識のようだ。映像作品を初めて見た後に現行本を読むと、かえって混乱してしまうかも。
何かにつけてミステリアスな彼女の存在が、紅楼夢という作品を奥深くしているのは間違いない。

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