「中国古典四大名著」と聞いて即座にわかる人は、なかなかの中国通に入るのではないかと思う。その名の通り、中国の古典小説でもとりわけ名作と知られる四つの作品を総称したもの。
その内訳は「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」「紅楼夢」。
先に断っておくが四大奇書のことではない。
四大奇書というのは日本の世界史教育で学ぶ総称で「紅楼夢」の代わりに「金瓶梅」という作品を入れたもの。中国でも明代あたりには四大奇書の呼称が使われていたが、後になって紅楼夢と入れ替わり、現代中国では四大名著の方が一般的に通じる。何故未だに日本が四大奇書に固執するのかはよくわからない。ちなみにこの類の総称は他にも沢山あって、例えば清代の名作「儒林外史」を上記五作とまとめて「六大奇書」と呼んだりもする。
余談はさておき。
もしこれから中国古典の世界に触れたい、もしくはちょっと興味がある、という方々には是非この四大名著から入って貰いたいのだけれども、いきなり挑戦するとなると地味にハードルが高い。四作品とも長編小説であり、岩波文庫に換算すると軽く十巻を超えてしまう重たい代物。そうでなくとも、古典小説というのは現代人の書く作品と違って、文章作法を守り、万人向けに伝わるような書き方をしていないのが常。まして過去の時代が舞台だから、歴史や文化に関する知識が無いと躓いてしまうことも多い。また三国志演義や西遊記は、日本人向けにリメイクした作品が多数存在し、そちらを読んで満足してしまう人もいる。
なので、原作の四大名著を翻訳で完読しました、という人は実際のところそんなにいないのでは、と感じる。改めて、各作品を簡単に解説していこうと思う。
「三国志演義」 おそらく日本で最も著名な中国古典小説であろう三国志演義。日本への流入もかなり早い時期から行われている。小説はもとよりアニメに漫画にゲームと、三国志をモチーフにした作品は日本で大量生産され、正直いい加減にしろと思わないでもないくらい使いまわされている。
そんな三国志演義だが、意外と原作を読んでない日本人は多いのではなかろうか。それどころか、演義は史実にそぐわない、一部の人物を不当に貶めているor持ち上げすぎていると、まるで出来の悪い作例のように言う人までいる。ただ、単に面白さをいえば、現代日本人の書いた三国志の方が出来がいいのは事実だと思う。
第一に、三国志演義の小説本は元~明代にかけて完成したが、もとは講談用の脚本であり、小説になった後もその形式が文章の中に色濃く残っている(語り口調な地の文、講談なので心情描写に乏しい、登場人物が歌い出す、講釈師の説明が入る、などなど)ので、現代人の一般感覚で読むと、よくわからない書き方をした小説に見えてしまう。こうした小説技法に関しては、後代の方が優れているのは当然といえば当然で、三国志演義に限らず、古典小説が読みにくい、面白くないとなってしまう要因の一つだと思う。
第二に、日本人が書いた方が当然日本人にとっても読みやすく共感しやすい物語になる。演義が書かれたのは儒教思想全盛の時代。例えば、主人公の劉備が一晩泊めて貰った家で人肉ディナーを振る舞われる話(家の主人はビンボーだったので劉備をもてなすことも出来ず、妻を殺してその肉を料理した。劉備はその誠意に感動する)なんて、当時ならともかく現代では到底共感できるモノではない。
じゃあ演義はつまらんのかと言ったらまったくそんなことはない。ただ、日本において三国志はゲームや漫画における人気コンテンツとしての地位を確立しており、三国志を楽しむのに原作を読む必要が無い状態になってしまっているのだと思われる。
四大名著の中では、西遊記と並んでかなり読みやすい部類に入る。というか、序盤の展開は現代人が拍子抜けしてしまうほどスピーディに進む。物語も起伏があって飽きないし、登場人物も沢山出てくるが視点は基本絞られているのでさほど混乱しない。基本的に史実を重んじた脚色がされており、特に赤壁周辺はそれが最高潮に達してかなり面白い。また演義の良さの一つは、きちんと三国統一で物語が幕を閉じるところだろうか。日本人作家の多くは孔明の死やその周辺あたりで物語を終わらせてしまうことが多い。
「水滸伝」
宋代・梁山泊に集う百八人の豪傑達の活躍を描いた一大伝奇小説。日本では江戸時代から流入が始まっているものの、一般的な認識や人気の浸透は、三国志演義より遙かに低い。江戸時代では現代と比較して相当人気だったようだが、それも日本人の手によるリメイク作品に取って代わられている印象を受ける。
水滸伝の一番の魅力は、個性豊かな豪傑達に他ならないのだが、実はこれが読者を阻む最大のハードルにもなっている。第七十回の梁山泊集結までは、主要人物が次々と入れ替わり右に左にストーリーが飛びまくる。このあたり、天下統一という目的のために戦う三国志演義、天竺を目指す目的がある西遊記に比べ、読みにくさは否めない。また当時の中国民衆の思想や文化が反映された豪傑たちの人物造形は、日本だとなかなか受け入れ難いものが少なくない。江戸時代からやたら翻案作品が生まれているのもこのせいではなかろうか。自分は八犬伝くらいしか完読したことはないが、水滸伝のコンセプトを踏襲しつつ、欠点だった部分をうまく解消して日本人好みに作られていると思う。
コンセプトといえば、国家に逆らう賊どものお話ということもあって、中国での評価は二転三転している。官民問わず読まれていた三国志演義とは違い、庶民の人気と裏腹に、文人や政治家からは長らく軽視されていた作品。このあたり、同じ通俗小説ながらの違いを読み比べて見たりするのも楽しみの一つ。
現代日本では、とにかく物語を貫徹出来る作家が殆どいない。吉川英治、柴田錬三郎といった大御所ですら未完。ようやく完走した北方謙三に至っては、原作の名前を借りただけの別物なので、原意に沿って水滸伝をリメイクした日本人はほぼいないのではなかろうか。とにもかくにも、日本ではリメイクが流行る運命の作品。
「西遊記」
三国志演義と並び、日本で知名度の高い中国古典小説。かの有名な三蔵法師とその弟子たちによる取経のお話。ストーリーは五百年の長さに渡り、三蔵一行の旅も長安から天竺までの大横断と、スケールは四大名著随一。
他の三作に比べ、圧倒的に読みやすいのが特徴。ストーリーは取経のため天竺を目指すというシンプルなものだし、主要人物も三蔵一行に絞られている。長編小説とはいえ、天竺を目指す道中の話は一つ一つ独立しているから(水戸黄門みたいなもんである)、中盤が長ったらしく感じるなら別に飛ばし読みしても構わない。ファンタジー作品につきもののアイテムや方術についても、作中人物がいちいち解説してくれるので安心(これは他の通俗小説と同じく講談形式の名残だけど)。長編中国古典小説にチャレンジするなら、まず一番にお勧め出来る作品。
日本でも様々なリメイク作品が作られているが、特徴的な改編としては、沙悟浄のビジュアルが日本人のイメージしやすい河童になっていることだろうか。また有名な堺正章ドラマ版のように、三蔵を女性が演じたりといった例もある。そのほか、原作では中盤妖怪扱いの金&銀閣コンビ、牛魔王がボス扱いされるなど、要所要所で日本特有の改編がある。日本でのリメイクは天竺に到達できずに終わってしまう作品が目立つが、別に取経よりもその道中でおこる波乱万丈が楽しいわけだから、そんなに問題ないといえば問題ない。
「紅楼夢」
中国古典小説の最高峰たる作品。中国のさる時代・一大貴族の賈家が繁栄・没落する様を描く。
日本で読まれないのはとにもかくにも「中国人らしい」作品だからだと思う。三国志演義、水滸伝、西遊記といった作品は、世界のどこにでも通じる普遍性・娯楽性を持っているけれど、紅楼夢は中国という国でなければ絶対に作れないほど、作品の細部まで中国テイストがしみこんでいる。中国の人、歴史、文化を知れば知るほど面白くなる作品だが、そうでないと手がつけられない部分が非常に多く、これが日本における最大のハードルとなっている。加えて登場人物の多さ、ストーリーの複雑さ、作者の製作事情(半自伝的小説だが、身内の負の部分を書くことを親族が反発した)によりはっきり描かれない内容の多さ、マジで退屈すぎる序盤の展開など、単純に小説として読みにくいのも原因だろう(ちなみに私もハマるまで三回くらい挫折している)。そもそも通俗小説と呼ぶには難しい部類の作品なので、副読本の一つでも欲しいくらいだが、悲しいことに日本ではそれらも乏しい。ちなみに、物語の本筋を簡単に理解したいなら賈宝玉と林黛玉の恋愛にのみストーリーを凝縮している戯曲作品や映画作品を見るのが一番早いように思う。
日本でのリメイクは少なく、しかも原作の良さををぶち壊しにしている作品が多い。賈宝玉=女好きのニート、林黛玉=ツンデレ薄命佳人、薛宝釵=優等生みたいなテンプレ人物に改変してしまっているのはヒジョーに浅いというか残念というか。古典エロゲーなどという、本編を一行も読んでいないであろう輩のキャッチフレーズがネットで横行してしまっているあたり、本作の知名度の低さがうかがわれる。日本人の紅楼夢小説で評価出来るのは飯塚朗の「私版紅楼夢」くらいではなかろうか。
とはいえ、中国古典小説の最高峰たる面白さは本物なので、上記の三名著をクリアしたら是非チャレンジしてみてほしい。
中国古典四大名著、まだまだ個別にその魅力を伝えていきたいところですが、今回はこんなところで。