ゆるゆる金陵十二釵考 薛宝釵

中国古典小説の最高峰「紅楼夢」。そのメインヒロインである金陵十二釵達について、全員分考察っぽく語っていきたいと思います。

記念すべき?第一回は妻にするなら~、の薛宝釵です。

劇中の経歴

母・兄と共に上京して賈家に居候の身となる。温雅な性格から家長の史太君を始め一族の皆に好かれた。前世の金玉縁の因縁により、終盤は賈宝玉と結ばれるものの、二人に待っていたのは心の通わぬ結婚生活だった。宝玉疾走後、一児を授かり次世代の復興を目指す。

その人物像

紅楼夢メインヒロインの片割れ。よくある解説本では優等生キャラとして紹介されるが、実際のところはむしろ変人の部類に入るんじゃないかと思う。そもそもの優等生というイメージは、彼女が当時の社会ルールに忠実で、上下の別を守り、人当たりがよく、出しゃばらない、といったところから来ているのだが、本編をよくよく読んでいると、この部分にこそ宝釵の異質さが如実に表れていたりする。
いくつか例をあげてみよう。まずは第二十回。一族の若者・賈環が侍女達と賭事をする中、いかさまをして侍女の鶯児から銭をふんだくる。宝釵はそれが明らかな不正だとわかっていながら「主人がお前を騙したりするはずないでしょ(主従の別を弁えなさい)」と、何と鶯児の方を注意する。
さらに第二十二回。この回は宝釵の誕生日が行われる。自分にとってのめでたい日にも関わらず、食事や劇の演目をことごとく誕生日費用を出してくれた史太君の好みに合わせる。
何かおかしさを感じないだろうか? こうした例は、細かく挙げていけばキリがない。一方的に侍女を虐待している乳母を「お年寄りだから譲らないと」と擁護したり(第十九回)、身内が持ってきた初物を「私は女だからそれを口にする資格は無い」と断ったり(第二十六回)、などなど。
ようはこの薛宝釵、確かにいい子はいい子だが、度が過ぎているのだ。彼女の振る舞いは、史太君や王夫人といった年長者には受けがいい一方で、一部の人間からはかなり否定的にとらえられている。
そのわかりやすい例が三十二回。侍女の金釧児が主人の王夫人に責められ、思いつめたあまり井戸へ身投げする事件が起きる。そのことで気落ちする王夫人を、宝釵はこう慰める。
「あの子はたまたま井戸の近くで遊んでいて、足を滑らせたんです。ちょっとお葬式のお金を多く出せば、それで奥様のお気持ちも伝わります」
おいおい、といった感じである。死んだ金釧児の立場からしたら、これほどあんまりな言い方は無いだろう。
後の第六十五回では、家に仕える下男の興児が、宝釵の人柄をこう称している。「この薛のお嬢様が、また雪をかためてこしらえたようなお方なのです」。
雪(シュエ)というのは薛宝釵の「薛(シュエ)」とかけているのだが、要するに雪=冷たい人という意味だ。下男身分の人間にすらこう思われているのだ。第八十五回で兄の薛蟠が殺人を犯した時も、母親へ向かって「兄はもう死罪確定ですから死んだと思うべきです」という、理屈のうえではまあ正しいんだけど、身内としては非情ともいえる発言をかましたりしている。
じゃあ、宝釵の本質は冷酷ということなのだろうか。いや、それもまた違う。何せ宝釵は、あの偏屈者の林黛玉を心から敬服させている。もし宝釵が表面だけ善人を装ったような人物なら、人間の機微に敏感な黛玉がそれに気づかないはずはないのだ(事実、黛玉も最初は宝釵が上っ面の偽善者だと思って敵視していた。その他に宝玉を挟んでの嫉妬もあったりしたけれど)。また、貧乏暮らしに困っている史湘雲や邢岫烟の内情を知ると、彼女たちに惜しみなく援助をしている。こうした他人への思いやりは、決して偽善から出るようなものではない。
ここまで読むと、薛宝釵という人はまるで二重人格のように思えてしまうかもしれない。しかし、それが彼女を語るうえではずせないカラクリでもある。
ちょっと彼女の人生を振り返ってみよう。第四十二回で、宝釵は黛玉に、昔の自分について語っている。自分もやんちゃで、つまらない本を読んだりしていたと。つまり、彼女は先天的には、無邪気な気質の女の子だったのだ。
しかし、それを変えたモノがあった。何か。当時の儒教社会的な教育である。つまり、礼儀作法を守り、目上を敬ってその命令には従い、嫁いだ男に尽くし、女として決められた義務を果たす、などなど。本編に登場した宝釵は、既に半分この考えに染まっている。だから「男子は勉強して役人になるべき」だの「女子に学問は必要ない」だのといった台詞がぽんぽんと出てくるし、その通りに行動する。
ただ、染まりきっているわけではないから、大観園で兄弟姉妹と過ごすときは、年相応の少女らしく楽しんでいるし、有名な「宝釵撲蝶」の場面では、普段見せない無邪気な一面を見せたりもする。
主人公の宝玉は、本編第五十九回で面白い女性観を語っている。「嫁ぐ前の女の子は値千金の宝珠だけど、嫁いで育ちきった女は魚の目玉だ!」。本編を読んでいけば、これが誰の未来を示しているのかは明白だ。
宝玉が求める女子の理想は、大観園に住まう少女達から読みとることが出来る。大観園の中では、お嬢様も侍女も、感情を発散し、自由に才能を発揮し、ありのままに生きている。
そんな女性達と相反するのが、家の奥様や年輩の乳母達だ。嫁いだ女性は家庭内の窮屈な道徳や礼儀の中で自由な感情を失い、縄張り争いや金のことにばかり執心する。男子優先の社会では、文章や音楽といった才能も発揮することは許されず、針仕事や父母への孝行といったことばかりが尊重される(しかし、当時の社会ではこれがスタンダードでもある)。そんな模範女子の道を突き進む宝釵は、宝玉にとってどんどん魅力の無い女性になっていくわけだ。
彼女の変化に、周囲の人物も気がつく。本編七十四回の中秋節では、仲が良かったはずの史湘雲に「あの人は冷たい」と言われてしまうし、家庭の事情で定められた宝玉との結婚にも(黛玉との友情や宝玉との関係を考えれば受け入れ難い内容なのにも関わらず)逆らわず、承諾してしまう。
結果として待っていたのが、本編における宝玉との不幸な結婚生活だった。半分廃人の旦那は死んだ女を想い続け、科挙試験の勉強も、家庭の差配もしてくれない。結婚後しばらくしてようやくやってきた床入りも「死んだ黛玉のことを忘れさせ、現実に目を向けてもらおう」といった打算のもとで行われる、何とも悲しいものだった。
こんな状況下ですら、宝釵は封建社会における賢妻をの役目を続けようとする。真人間になれ、試験を受けろと、あの手この手で必死に夫を説得するだけだ。妻たる立場を重んじ、表だって家庭問題を解決しようとはしない。その姿勢自体もまずい。そもそも、彼女は紅楼夢に登場するヒロインの中でもトップクラスの才女なのだ。学問はいうに及ばず、商家生まれなので経済観念も並外れている。例えば第五十七回では、ひょんなことから姉妹達が園内に落ちていた質札を発見する。黛玉や探春、さらにはお嬢様とはいえ貧乏暮らしの湘雲すらもが首を傾げる中、宝釵だけがその用途を理解していた。また第五十五、第五十六回において、探春が賈家の台所を取り仕切って改革を行うが、その際にも探春へ的確なアドバイスを与えている。彼女が大家庭を切り盛りする能力を持っていたことは、作中で度々描写されているのだ。その気になりさえすれば、落ちぶれた賈家の復興すら出来たかもしれない(言い過ぎかな?)のに、彼女は封建社会の良き妻を演じるばかりで、全くその力を発揮しようとしない。彼女の優れた才能は、自らが幸せになれると信じて学んだ儒教思想のために、使い道を潰されてしまったのだ。
さて、これまで述べてきたように、宝釵は儒教的な教育で人間性を失い、不幸な結婚生活に陥った。けれど、そんな彼女にも救いの時がやってくる。それが本編の第百十九回だ。この時、宝玉は幼い頃に見た太虚幻境へ再びいざなわれ、本編における登場人物の運命を全て知った後だった。そのことですっかり達観してしまい、現世への未練も失せている。口を開けば出家出家、周りで不幸が起こっても知らん顔である。その有様を見た宝釵は、ついにこれまで封じ込んでいた自分の感情を爆発させ、夫に訴える。そこには、これまでの宝釵が口にしてきた、儒教社会の理屈が半分吹っ飛んでいた。宝釵の懇親は、既に現世を見限っていた宝玉の心を揺り動かした。自分達を待ち受ける運命はもう決まっていて、今更何をしたところで変えられない。結局、自分は出家して現世を去ることになるのだ。けれども、宝玉は試験を受けることにした。彼女の気持ちに応えたるためだ。思えば宝玉は宝釵の理屈をずっと嫌っていたし、結婚後もその感覚は代わらず、結局すれ違いを続けていた。
だからこそ、この場面は感動的だ。二人はこの瞬間、夫婦として真に心を通わせることが出来た。もっとも、二人にはその後永い別れが待ち受けており、悲劇ぶりも一層高まってしまうのだけど。
高鶚の後四十回は、曹雪芹の原案と比べ整合性がとれていない部分も多く批判されやすいが、宝釵をヒロインに据えた物語としてはじゅうぶんに合格点だと思う。ドラマや映画作品では、黛玉の死と賈家の崩壊ばかりが話の中心になるが、宝釵の悲惨な結婚生活ももっと深堀りされていいのではなかろうか。