金庸作品考察 「倚天屠龍記」九陰真経・継承の謎

倚天屠龍記(5) 選ばれし者 (徳間文庫) [ 金庸 ]

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 金庸の射雕三部作における最強奥義・九陰真経。第二作「神雕剣侠」から百年が経過した「倚天屠龍記」では既に伝説の武芸となっていたが、終盤、峨眉派掌門の周芷若によって復活し、その威力を大いに見せつけている。
 が……この一連の展開について、長年疑問に思っていることがある。今回はそれについて考察していきたい。

一、何故「九陰白骨爪」の技を後世に残したのか。
 そもそも郭靖夫妻がこの技を残し事実に違和感がある。
 というのも「九陰白骨爪」は郭靖からすると忌まわしい技だからだ。師匠の張阿生や韓宝駆はこれで殺害されている。郭靖自身も桃花島で周伯通から指導を受けた際、九陰白骨爪への嫌悪感を露わにしている。その後中年になって九陰真経を修行した後も、この技を人前で使用することは無かった。恐らく、修得自体していなかったのではなかろうか。そのうえ、江湖での評判もヒジョーに悪い。
 そんな技を、なんでまた後代に奥義として残さなければならなかったのだろうか?

二、倚天における威力がちょっとおかしいのでは? 
 百年ぶりに復活し、屠獅英雄会で披露された九陰白骨爪だが、周芷若と宋青書は、修行期間が大して無かったにも関わらず、この技だけで一流の使い手を次々に打ち破っている。特に周芷若に至っては、当時最強クラスだった武当二侠とも渡り合えるほどだった。
 射雕時代と比較しても、ちょっと強すぎではなかろうか?

三、「九陰真爪」じゃなくて「九陰白骨爪」
 そもそも九陰白骨爪という名は、正式名称ではない。周白通が指導した九陰真経には「九陰真爪」と記されている。が、どういうわけか郭靖夫婦の残した奥義書は「九陰白骨爪」。戦争のどさくさで慌ただしく作ったから間違えちゃったのだろうか?

 というわけで、ざっと考えただけでも結構な謎が出てくる。うーん、金庸先生もノリで書いて、あんまり整合性とか深く考えてなかったのかな。うんうん。じゃ、そういうことでオシマイ! 
 ……にしてしまってはつまらないので、もう少し真剣に考えてみよう。
 郭夫婦にとって忌まわしい九陰白骨爪を、わざわざ後代へ残したのは、やはり何らかの理由があったからに違いない。
 可能性の高そうな仮説をちょっと紹介してみよう。

 ・実は九陰真経における最強武功だった。  
 作中で名言はされていないが、物語を通して読むと、九陰八骨爪が真経最強の技だったと感じさせる部分がある。
 初出となる射雕英雄伝で、最初に登場した九陰真経の使い手は、黒風双殺の陳玄風と梅超風である。
 九陰真経の下巻には強力な武功が多数収録されていた。ところが黒風双殺はもっぱら九陰白骨爪の修行に専念し、他の技を学んだ形跡が無い。何故か? ちょっと二人の立場にから考えてみよう。もともと真経は上下巻に分かれており、上巻抜きでは修行にリスクのうきまとう代物だった。また最強の武功秘伝書だけあって難度も高い。あれもこれもと色んな技に手を出したら、リスクも必然的に増大してしまう。それなら、学ぶ技は極力絞った方がいい。
加えて、真経は師匠・黄薬師から盗んできた経緯がある。取り返しにでもきたらあの厳格な師匠のこと、容赦なくブチ殺されてしまうだろう。万が一江湖で出くわした時に何とか対抗出来る技を修得しておかなければならない。となれば、一番強そうな武功を学んでおこう、といった考えに至るのが自然ではなかろうか。
 さて、そんな黒風双殺のレベルがどれくらいかというと、趙王府の食客軍団や全真教首脳陣を上回り、二人の上には幾つかの例外を除くと四大達人しかいない。江湖では相当上位の実力者である。
 以上は黒風双殺の例だが、倚天の周芷若にも同様のことが言えるのではないか。倚天剣に隠されていた九陰真経には、九陰白骨爪以外にも多数の武功が記されていた。が、周芷若もやはり九陰白骨爪しか修得の形跡が無い。時間が無かったのはもちろんだが、やはり九陰白骨爪が一番強力そうだからこれを選んだ、というのが一番の理由では。
 また郭靖夫婦が倚天剣・屠龍刀を製造した時、モンゴルとの戦争の状況は非常に悪化していた。自分達が倒れ、後に望みを託すのであれば、やはり強力な武功を残しておくに限る。多少江湖でのイメージが悪かろうとも、自分にとって忌まわしい過去を持つ技でも、それはこの際仕方ない。モンゴルは何があっても倒さなければならないのだ。というわけで、この仮説なら疑問一つ目と二つ目の疑問にはじゅうぶんな回答だと思う。となると三が問題。ということで、次の仮説を語ろう。

 ・郭夫婦の改良が入った調整版だった。
 実は倚天において、滅絶師太がこの件に軽く触れている。モンゴルを一日も早くぶっ倒すべく、黄蓉が知恵を絞り速成のため手を加えたのだ、と周芷若に説明していた。
 そもそも九陰真経は難解な武功である。作中では誰もがあっさり修得しているように見えるが、主な修行者は江湖最強クラスの四大武術家であり、郭靖や黄蓉も修行には常に彼らの助力を必要とした。楊過にいたっては小龍女と独自で学んだものの、戦闘では偶発的な発動が多く、なかなか完全に使いこなせていなかった。また、郭靖が下の世代に真経を教えた形跡が無いのも、その難易度を裏付けているのではないか。
 前述の通り、九陰神爪が真経最強の技だとするならば、恐らく完全な習得には相当な時間を要するだろう。とはいえ、モンゴルを一日も早く追い出すべく強力な武功を残し伝えたい。これはなかなかのジレンマだ。
 そこで黄蓉は思いつく。正規の方法ではなく、少々邪道なやり方を取り入れれば、威力を落とさず、短期間で技を完成させられるのではないか。郭夫婦は、他ならぬ邪道の修得例を目にしている。そう、黒風双殺の九陰白骨爪だ。
 つまり、
 九陰神爪+九陰白骨爪÷2=倚天の九陰白骨爪
 これが滅絶師太の語った、速成のために行った改変の実態なのではないかと思う。つまり、時間をかけずに修得可能でメチャクチャ強力だけど邪道に堕ちやすい倚天の九陰白骨爪、というわけ。
 実は倚天でも、その威力はともかく、武功自体はちぐはぐな評価を受けている。
 じっくり技を観察した兪蓮舟は、案外威力が大したこと無いと見抜き、張無忌も少林三僧戦で「付け焼き刃」「実力そのものは殷天正や楊逍に及ばない」と認識している。宋青書の戦いぶりを見ても、初見殺し的な技の奇抜さに頼っており、修得期間の浅さをつかれて倒されている。
 ちなみに倚天で「九陰白骨爪」の名を口にしたのは黄衣神女ただ一人である。神雕本編では、九陰白骨爪の使い手は既に滅びており、楊過がこの技を学ぶ機会は無かったはず(王重陽が残した九陰真経奥義の中に含まれていたとしたら九陰神爪名義のはずだから)。ということは、郭夫婦は倚天・屠龍以外の保険として、当時隠遁していた楊過に、この改変した九陰真経を渡していた可能性があるのではないか。

 うーん。本編には描かれていなかったが、九陰真経継承にはちょっと考察するだけでもたくさんのドラマが隠されていたのだ。やはり、金庸先生は偉大である!

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