金庸の武侠小説「神雕剣侠」では、楊過と小龍女師弟の禁断の恋が描かれる。武林において、師匠と弟子は恋愛してはならない決まりがあったのである。
しかし楊過は、モンゴルに対抗すべく多数の豪傑が集った英雄宴にて小龍女を妻にすると宣言、人々から非難を浴びる。
そんな楊過を誰よりも心配したのが、名付け親であり伯父の郭靖だった。
彼は楊過が人の道に外れるのを止めようと説得するも、一向に聞き入れてもらえないので激怒し、最後には命をとる寸前までいった。
ところが、問題はその後だ。郭靖はいつの間にか楊過カップルの関係へまったく口出ししなくなるのである。英雄宴での怒り具合を考えると、このスルーぶりは実に妙だ。
そこで今回は、郭靖が二人の仲を容認するようになった経過を考察していこうと思う。
さて、問題が発生した英雄宴以降、郭靖と楊過はそんなに顔を合わせていない。二人が次に会ったのは、郭靖が襄陽でモンゴルと戦っている時だ。この時、楊過は郭靖を親の仇とつけ狙っており、かなりかたい態度をとっていたのだが、郭靖は楊過と小龍女が揃ってやってきても何事も無かったかのように温かく出迎えた。そしてしばらくの間一緒に過ごすものの、最後まで楊過に小龍女との関係を聞いたりしていない。まるで結婚問題なんてはなから無かったかのような態度だ。唯一、黄蓉に対しては楊過が人の道を踏み外さないようにしないと、と口にする場面はあったが、軽く流されてしまった。
というわけで、英雄宴~襄陽での再会までの間で、郭靖の認識に変化が起きていたと考えるのが自然だろう。
では、その変化のきっかけは何か。
一つは、やはり黄蓉の命を助けてくれたことかもしれない。英雄宴の直後、郭芙が金輪法王に浚われてしまい、黄蓉も危機に陥ったところを、現場に居合わせた楊過と小龍女が法王を撃退してくれた。その後、法王は再度襲撃してきたが、またしても楊過が駆けつけて(この時小龍女は疾走して行方不明)、黄蓉を救っている。
郭靖からしたら、この恩は非常に大きい。英雄宴での活躍も含めれば、彼の楊過に対する株の上がりっぷりは相当なものだったはず。
とはいえ、その恩と楊過が人の道を踏み外そうとしている点はやはり別問題だ。むしろ郭靖の性格からふれば、妻を救ってくれた恩返しに、楊過の将来のため、一層結婚についてきちんと諭してやらねば、くらいに思ってもおかしくない。
では、誰かが郭靖に楊過の結婚を認めるよう説得したのだろうか。そういう家庭事情にまで口を出せるのはやはり身内が限度だろう。となると、一番身近にいるのは黄蓉だ。彼女は、一緒の部屋にいながら別々の寝床で休むという、夫婦としては不可解な関係性の楊過カップルの姿を目にしている。あの二人は普通じゃないからもう放っておきましょう、くらいのことは夫に言ったかもしれない。しかし、神雕以降の黄蓉はすっかり封建社会の賢妻といった感じで、郭靖の意向には余程のことがないと逆らわない。彼が楊過・小龍女の結婚に反対の立場をとる以上、黄蓉が賛成・容認側になって説得する可能性はかなり低いはず。そのうえ黄蓉は楊過を好いていないので、彼の恋愛事情にわざわざ深く突っ込むほどの熱量があったとも考えにくい。
うーん、色々語ってみたが、郭靖の考えの変化はやはり謎だ。
もしかすると、金庸先生もストーリーを進めることばかり意識して、このあたりは描写する余裕がなかったか、見落としちゃったのかな。うんうん。じゃ、この考察はそういうことでオシマイ!
…と思いきや、一人だけいたのである。
郭靖を完璧に説得出来る人物が。
そう。舅の東邪・黄薬師だ。
実は黄薬師は、本編でもっとも早く楊過夫婦の仲を認めていた人物だ。
小龍女を師匠と認め、そのうえで彼女と結婚したいと主張する楊過を見て「なんと立派な反骨精神! ワシの若い頃にそっくりじゃ! 素晴らしい」と、偏屈な彼にしては珍しく絶賛している。
しかも別れ際に「お前の婚礼を邪魔する者がいれば駆けつけるぞ」とも言っている。人嫌いな癖にお節介な面もあり、前作の射雕では強引に陸冠英と程瑶迦をくっつけて夫婦にしたりしていたから、この手の悩みはお手の物だろう。
さらに重要なのが作中の登場タイミングで、彼と楊過の出会いは英雄宴~襄陽戦の間。おお、ドンピシャじゃないか。
何より彼は郭靖の舅。基本的に目上に従順な郭靖だが、道徳問題となると話のレベルも重い。黄薬師くらい身近でかつ上の立場にいなければ、納得させるのは困難だろう。
てなわけで、黄薬師が動いたと考えればこの謎はほぼ解決だ。
天才な黄薬師のことだから、楊過が伯父に結婚を反対された件も、会話の節々から察することが出来たに違いない。
うーむ、なるほど原因はあのバカ婿か。こうなればわしが一肌脱がねばなるまい。
かくして黄薬師は、戦争準備で忙しくしている郭靖の事情もそっちのけに襄陽へやってきて、いきなり説教を始める。
多分、こんなやり取りがあったのだろう。
黄「靖、お前はどうして若い二人の恋路を邪魔するのか」
郭「あ、いや、義父上、師弟が結婚するのは世間の道徳に背くことですので……」
黄「なにぃ。道徳に背くじゃと。だったらお前こそ蒙古の許嫁との約束を破ってわしの娘とくっついたではないか。人のことが言えるのか」
郭「お、おっしゃる通りですが、あれは事情が特殊ですし、何より私達の婚礼は義父上が認めてくださいましたし……」
黄「あぁん? 目上が決めたら納得するのか。じゃあわしが楊過夫婦のことを認めたら、婿のお前は当然従ってくれるんじゃな?」
郭「ですが義父上、それではあの二人が世間から、礼儀知らずだとか人の道に沿っていないとか非難されてしまいます」
黄「バカモン! この東邪の婿になっておいて世間の礼儀道徳に囚われるとは何事か! 俗物共には好き放題言わせておけばよい。あの二人が夫婦になって誰の迷惑になるというのか。お前のように頭のかたいヤツが多いから世の中には不幸が絶えんのだ。とにかく二人が結婚したいというなら全力で応援せよ。でなければわしはお前と親子の縁を切るぞ! わかったか!」
口下手な郭靖が黄薬師に反論出来るはずもなく「はい、はい。おっしゃる通りにします…」と答えるのが精一杯。どのみち相手は江湖最強クラスの達人で自分の舅。強く言われたら従うしかない。
それに郭靖も根が単純だから「まあ父上があそこまで言うんだから、師弟の結婚は案外大した問題じゃないんだろう。世の中には父上や周の兄貴みたいな変人も多いしな」とそのうち納得したのではなかろうか。
というわけで、導き出された回答は黄薬師が郭靖を説得した、でした。黄薬師があのタイミングで物語に登場したのも、きっと金庸先生の綿密な計算によるものだったのだろう。やはり先生は偉大である!