金庸徹底考察 主人公編 倚天屠龍記より張無忌

金庸小説「倚天屠龍記」の主人公。射鵰三部作を締めくくる人物ながら、色々とマイナス評価も多い。

劇中の活躍
中国から遠く離れた無人島で、武林の名門・武当派の張翠山と邪教集団・明教の殷素素との間に生まれる。義父である謝孫も加え、十年の月日を平和に過ごすが、親達は無忌の幸せを考えて中国へと戻ることに。長い船旅でようやく帰った中国。その途端、かつて様々な悪事で世を騒がせた謝遜を敵視する武林各派の人間につけ狙われる。結果、両親は追いつめられて自殺。無忌自身も突如現れた玄冥二老の拷問で不治の重傷を負ってしまう。
怪我を癒すべく、胡蝶谷の名医・胡青牛に預けられる無忌。しかし、彼の手をもってしても病気は治らず、胡青牛は仇の手により命を落とす。その騒動の中孤児になってしまった娘・楊不悔を連れて彼女の父がいる崑崙山を目指す無忌。困難な旅の末、無事に彼女を送り届けた後、善人の皮を被った武芸者・朱長齢に救われ、陰険な手口で謝遜の居所を暴かれそうになる。無忌は争いの末、崖に落下して人里知れぬ谷に迷い込む。そこで偶然、百年近く失われていた武林の奥義・九陽真経を発見。五年かけてこれを習得し、再び中原に舞い戻る。が、折しも正派と邪派は一大抗争の真っ最中。成り行きで明教側についた無忌は、たった一人で正派六大門派を打ち破り、この戦いを終わらせる。その後、周囲の推薦もあり明教の教主に就任。謝遜と屠龍刀の行方を捜すべく動き出すが、その前に趙敏率いるモンゴルの部隊が立ちはだかる。彼女にさらわれた正派の主要人物を都で救い出し、謝遜の捜索のため、自分を慕う娘達を連れ冰火島に赴く。しかし、そこには明教の本壇であるペルシャの教徒も巻き込んでの大騒動に。この争いの中、小昭はペルシャの明教徒と共に去り、殷離は死亡してしまう。殷離を殺したのは趙敏だった。悲しみに暮れる無忌だったが、謝遜の勧めで周芷若と婚約。しかし、その後丐幇に謝遜と芷若がさらわれてしまう。何とか周芷若を救い、婚礼の儀式をあげるが、そこへ趙敏が現れたため式はうやむやに。趙敏は謝遜が少林寺にいることを伝え、明教の仲間と共に奪還へ向かう。折しも、少林寺は英雄会を開いて各地の群雄を招いており、そこには武林正派を企む謝遜の師・成崑の陰謀が潜んでいた。無忌は九陰真経の奥義を極めた周芷若と協力し、少林最高峰の使い手である三人の僧から謝遜を救い出す。成崑も倒され、武林の争いにも終止符が打たれた。また周芷若が所持していた倚天剣・屠龍刀により、長年武林の秘密だった九陰真経の奥義と、岳飛の兵書が発見される。無忌は兵書を用い、群雄と協力して少林寺へ押し寄せてきたモンゴル軍を打ち破った。しかしその後、部下の一人だった朱元璋の奸計にはまり、明教教主の座を捨てて趙敏と共に隠棲してしまうのだった。

人物
射鵰三部作における主人公のトリ。郭靖や楊過に比べ、優柔不断だの女に振り回されているだの、やたらマイナスな評価ばかり目立つ気がするが、自分はそんなに悪いキャラだとは思わない。誰に対しても優しいし、決断力が無いなりに大役は無難にこなしている。
特に恋愛スキルについては、金庸主人公の中でも上位なのでは、とすら思える。というか、そもそも金庸主人公にまともな恋愛能力を備えた人間が殆どいない。袁承志や簫峯なんて堅物もいいところだし、狄雲や虚竹はチェリー丸出しだし、恋愛至上主義の段誉が王語媛にやっていたことなんかまるきりストーカー、陳家洛はカスリーを道具同然に利用し、令孤冲が岳霊珊への想いを延々と引きずっている姿も実に見苦しい。郭靖は黄蓉に一途だが、まともな恋愛スキルは無いに等しい。特にコジンと黄蓉の間で二択を迫られた時「やくそくはまもらなきゃいけないからコジンとけっこんする」などと、建前の信義を選んで黄蓉の気持ちを踏みにじったあたりは本当にバカだと思った。初期の楊過も、陸無双や完顔萍を小龍女がいない間の身替りみたいにしか思っておらず、これまた弄ばれた娘達にしてみたらヒドイ話。
それに比べると、張無忌は割と恋愛が出来る。気軽に女性を口説けるし(ちなみに口ばかりじゃなくて手も割と出る。一体誰にそんなこと習ったんだ…。朱九真か?)、相手の個性を大事にするし、中原奪還の大義を理由にヒロイン達の気持ちを無視することもしない。いい家柄、明教教主の地位、チートレベルの武功、優しい性格、などなどモテる要素も備えている。ただし、あくまで他の金庸主人公と比べて恋愛力が高いというだけであり、やらかしもかなり多い。周芷若の前で「まだ僕の気持ちがわからないのかい?」「天上の名月が愛の証人さ♪」などちょーしいいことをしゃあしゃあ言った結果、後に他のヒロインの前でしどろもどろするなんてしょっちゅうのこと。「女には気をつけるのよ」と母親に釘を刺されたのに、成長しても女の嘘や計略にも騙されまくり。まあ、彼にとって不幸だったのは、寄ってくるヒロイン連中が揃いも揃って知能策略武芸に長けた極悪娘ばかりだったことだろう。こんなのに童貞クンが囲まれたら、そりゃ多少は振り回されたって仕方ない。むしろ「四人全員と結婚出来たらいいのになぁ、ゲヘゲヘ」なんて妄想が出来てしまうんだから、大した男だと思う。最後は趙敏が一番好き、と一応自分の恋愛に決着もつけているしね。

組織のリーダーとしては確かに優柔不断さが目立つものの、明教は彼がいるだけで完璧に機能している。中国の優れたリーダーというのは、始皇帝や毛沢東のようにトップが圧倒的な権力と能力を持つタイプ、「水滸伝」の宋江のように本人は凡庸っぽいが自然と周りに慕われるタイプ、この二通りに大別出来る気がするが、張無忌はまさしく後者だろう。確かに武功と医術は並外れているけれど、リーダーらしい指揮能力はゼロに近い。それがかえって、「この方を支えてあげなければ」と、癖の強い部下達の結束を生んでいたのではなかろうか。

もう一つ、彼を優柔不断たらしめている原因が、その出生と育ってきた環境。そもそも正・邪両方の人間の血を引き継いでいる因果の子だし、武当派や胡蝶谷など、正邪双方の領域を行き来して成長してきた。しかも張無忌の生きた時期は、正派vs邪派の抗争が激化していた。そんな環境の中で、敵と味方を判断するのは簡単ではないし、だからこそ常に悩み続ける。倒すべき相手がはっきりしていた郭靖や楊過とは、根本的に立場が違うのだ。また自身がそういう境遇だったからこそ、モンゴルの公主だった趙敏とも、国や民族の隔てを乗り越えて愛を育めたんじゃないかと思う。
優しさ溢れる張無忌という人物が、自分は割と好きだ。

武功
金庸小説主人公らしく、作中でトップクラスの使い手に到達するが、無忌はとりわけその強さの突き抜けっぷりが凄い。太極拳を習得した武当山の戦い以降、一対一で彼とまともにやり合える敵は殆どおらず、玄冥二老やペルシャの三使者のように、複数がかりで無忌と拮抗するのがやっとという有様。大抵の金庸主人公は極端なパワーアップを遂げた結果、何かしら弱点のようなものが付随されるんだけれども(剣術無双だけど拳法は不得手な令狐冲、武林最強の奥義を習得したけれど経験不足で苦戦する段誉や狄雲などなど)、無忌にはそういった要素も無い。
加えて優れた医術の心得があるので、怪我を負った時の自己回復力も凄い。ただでさえ九陽真経による莫大な内力で、防御面がほぼ無敵ときている。RPG的に言うと、常時バリア持ち+回復魔法付きの勇者みたいなもん。まあ本作の場合、本当に凶悪なのは武功ではなく女の怨念や謀略だというのがはっきりわかるので、無忌がいくら強かろうが、悪女たちの手の中で踊らされるばかりなのである…。

武当長拳…冰火島から中国までの航海で、父親の張翠山に習った武術。青年になって他の武術を習得するまで、まともに使えるのはこれくらいしかなかった。要所で護身のために使用するが、武当派が武林でも有名なため、この武功を使ったせいで他人に身元がばれてしまうこともしばしばだったりする。そんなことが続いたせいか、光明頂より後の戦いでは使われていない。

謝遜による武功口伝…明確な名称が無いので便宜的にこう記す。冰火島で数年ほど、謝遜に各派の武術や奥義を口伝で仕込まれた。実践的な稽古をしたわけではないので、そのままでは当然役に立たない。自分の優れた武芸をじっくり教える時間が無かった謝遜は、ひとまず口伝だけを教えておくことで、無忌が成長した時に自身で悟れるようにした。光明頂における六大門派との戦いで、無忌は各派の絶技を用いて勝利を収めており、恐らく謝遜の教えが活きていたのではないかと思われる。

九陽真経…一説では達磨大師が作成したとされる武功。内力を爆発的に高める。前作「神鵰侠侶」の時に失われて百年近くが経過し、色々あった末、偶然無忌入手した。全四冊からなり、無忌は五年あまりかけて習得。世の達人を圧倒する莫大な内力を手に入れた。その威力は実に凄まじく、ただのパンチで猛犬を殺す、達人クラスの攻撃を軽々はね返す、毒技を無効にする、攻撃してきた敵に内力を送り返して怪我を癒す、送られた内力をぐんぐん吸収して超回復、戦えば戦うほど内力が増強する、などチートな描写のオンパレード。しかしながら、あくまで内力増幅の奥義であり、それを攻撃に転化するような技は一切記されていない。そのため、最初はせっかく得た内功も存分に使いこなせていなかった。六大派との戦いで徐々に実践的な使い方を会得していき、さらに明教本部にあった乾坤大挪移で潜在能力を引き出すことに成功、これによって九陽真経の内功を自在に操れるようになった。

乾坤大挪移…中土明教に伝わる奥義。教主にのみ伝授される武功。第一層から第七層までのランクに分かれている。修練することで主に二つの効果が得られ、その一つは潜在能力の解放。ただし素質や能力が無い者はこの時点でやめておかないと命に関わる。張無忌は九陽真経の修行で類まれな潜在能力を蓄えていたため、この新法を修行することにより一気に力を増した。二つ目は心法を駆使することで、あらゆる力を移動させる。主に、大きな物を動かす、力の方向を変える、攻撃の対象を移し替える、といった使い方が出来る。一見地味とも思える能力だが、対象が「力」であればそれがどんなもの(威力の大小、技の巧拙、内功外功かどうかも問わない)であっても自在にコントロール可能であり、実際は作中屈指の凶悪武功。光明頂戦の張無忌は殆ど武功らしい武功を備えていなかったが、この乾坤大挪移の心法だけで六大正派を完封している。戦闘では敵の攻撃をそのまま相手にはね返したり、別の敵へ振り向けたり、といった使い方が主。ようするに敵からするとあらゆる攻撃が弾かれるバリアーを相手にしているようなもん。作中でこの乾坤大挪移心法を真正面から破ったキャラは一人もいない。ぶっちゃけ、太極剣とか習得しなくても別に問題なかったんじゃないかと思えるほどの威力。
万安寺の戦いでは高所に捕らわれた群雄を救い出すため、塔から落下してきた人々の力の方向を変えて、落下の衝撃を和らげるという応用技も見せた。動かす力が大きいほど使用者の消耗も大きくなるが、莫大な内力を持つ無忌なので、そこまで問題になることもなかった。

太極剣・太極拳
武当派の張三豊が開発した奥義。静と柔の動きを主とした技。ビジュアル的には腕や剣でただ円をぐるぐる描くだけ。武当山の戦いで張三豊より伝授され、その場で初披露。無忌にとっては唯一ともいえるまともな武功だが、明教教主という自分の立場を慮ってのことなのか、使用頻度はそれほど多くない。

聖火令武術(別名:ペルシャ古武術)
明教に伝わる宝・聖火令に記されている武術。ペルシアにて山の長老・ハッサンが開発したとれる。既に手の付けられない強さになっていた張無忌を余計に強化し、この技を用いて武当四侠をあっさり倒した。しかし終盤の少林寺戦では「山の長老ハッサンが半ば魔道に落ちた人物であり、魔を調伏する少林寺の武功には相性が悪い」という、よくわからん理論が展開されて不利に陥ったりした。うーむ、なんじゃそりゃ。

医術
蝶谷医仙・胡青牛から伝授される。大した武功を持たなかった少年時代は、これによって降りかかる危機を切り抜けている。また胡青牛の妻である王難姑が持っていた「毒経」により解毒にも詳しく、趙敏が仕掛けてくる悪辣な手段にもそれらの知識で対抗することが出来た。

人物関係
趙敏…ヒロインの一人。智謀に長けた極悪娘。敵味方という際どい関係を続けていたせいか、何だかんだで打ち解けてしまった感じ。無忌を怒らせたりやきもきさせたりするのはもっぱら趙敏。やっぱり恋は刺激のある相手の方が燃えるよね。

周芷若…ヒロインの一人。金庸最強悪女の一角。無忌との恋愛は割と芷若の一方通行だったりする。真面目な女の子は報われないね。いやまあ芷若の場合はただ真面目の皮を被っていただけなんだけど。

殷離…ヒロインの一人。不思議っ子。でも四人の中では邪気があるだけでまともな気がする。無忌が最初に好意を告白し、かつ妻にすると言った女性。ちょっぴり母の面影も見出していたりする。趙敏がいなかったら彼女を選んでいたんじゃないか、と思ったり。が、肝心の殷離は夢の中の男しか見えてない…。

小昭…ヒロインの一人。侍女ポジション。別れ際まで無忌を騙していたことを考えると、ずっとお仕えしていたかったという告白も本心なのやら。四人の中では、一番無忌に心を明かしていない気がする。

謝遜…義父にして本作の影の主役。無忌の行動原理には大体彼が関わっており、その影響力は非常に大きい。少林寺の屠獅英雄会では完全に主役扱いで、無忌はいいところを持ってかれた。まあそういうところも無忌らしいっちゃらしいいけど。

張三豊…武闘派の頭。無忌にとっては偉大なる師。正邪の区別をつける時、大体張三豊の教えが無忌の基準になるなど、その影響力は大きい。

武当七侠…張三豊の弟子達。無忌はとりわけ俞莲舟と仲が良い。父親の二の舞を踏むのではないかと常々心配されている。

滅絶師太…峨嵋派のボス。無忌が色摩呼ばわりされるのは大体彼女のせい。

楊逍…光明左使。明教における趙無忌のブレーン。最終的に教主の地位を譲った。

范遥…光明右使。優れた使い手であり、無忌は武芸面で彼を頼りにしている。

楊不悔…少年時代に一緒に長旅をして実の兄弟のような仲。二人の道中は武侠ものじゃなくて世界名作劇場のような趣があって泣ける。

成崑…謝遜の仇にして武林を陰から支配しようとする黒幕。無忌にとっては最も倒すべき敵のはずだが、いいところは全部謝遜に持っていかれてしまった。

玄冥二老…趙敏の部下。無忌に不治の重傷を負わせ長いこと苦しめた。成長した張無忌とも度々戦い、何だかんだまともにやり合うことが出来る数少ない敵。

黄衫女子…終盤で登場し、無忌を度々窮地から救う。無忌と戦ったらどちらが強いのかは気になるところ。

張翠山・殷素素…両親。無忌を十年育てて中国へ帰還した矢先に相次いで死亡。素素の遺言はあんまり意味が無かったような。