趙樹理の長編小説。さる農村・閻家山は土地解放を成し遂げた模範村として知られていたが実際は富裕層によって貧困農民への搾取や虐待が続いていた。区からやってきた党員の楊は民衆に浸透していた「快板」を用い、事態を解決しようとする。
快板というのは、当時の共産党解放区における主要な芸能の一つ。拍子木や竹を用いた打楽器のリズムに合わせ、即興で詞を作る語り物。使われる言葉も平易でわかりやすい。内容は村の内外で起きる事件だったり、重要な人物の消息だったり、文字文化の育っていない農村おいて、快板は新聞やラジオに相当にする立派なニュースメディアだった。本作で登場する李有才のように、いわゆる優秀な歌い手も存在し、共産党が農村で政策を進めるにあたって、情報伝達にも利用されている。いくら何でもアナログ過ぎだが、共産党側からすれば労働大衆の生んだ立派な文化芸術という扱いだったようだ。
ストーリーは虐げられている農民が革命運動で悪人を倒す!という、当時の人民小説お決まりのパターン。何の捻りもない。中盤から登場する農民組合主席の楊も、例によって美化されまくりな共産党員のイメージそのまんま。そういうわけで、物語としての面白さはあまりない。
とはいえ、趙樹理作品らしく農村の描き方は深い。多くの人民小説において農民は基本的に素朴な善人だが、趙樹理作品では目先の利益だけで動いたり、考え無しに権力者に利用される無能な農民も登場する。地主たちがわざと農地の測量を甘くして税金を減らし、代わりに権力者側の横暴を黙認させるなど、農村社会の暗黒面も描写している。結局、権力者の搾取や横暴は、それに協力する大衆がいるからこそ成り立つものでもある。
趙樹理のこうした切り込み方は、当時の農村問題をわかりやすく可視化させた反面、共産党や労働者への非難とも取れてしまう。後に彼が文化大革命で攻撃されてしまった片鱗が、作品のあちこちに宿っているように感じられた。