老舎「私の一生」

老舎の中編小説。
主人公の私は、とある事件をきっかけに車引きと並ぶ下層階級の仕事・巡査になる。自分の良心に従って仕事に励む私だが、歪んだ社会の中ではそれもうまくいかず、絶望に追い込まれていく。働きに働き、年をとって死の淵に立たされた時、私は自らの一生について語り始める…。

 

老舎の労働小説の代表作はいうまでもなく「駱駝祥子」だが、本作もそれに匹敵する傑作だと思う。一人称形式で話がわかりやすく、物語もコンパクトにまとまっている点などはむしろ「駱駝祥子」に勝っている。

車引きと巡査は老舎小説によく登場する職業。どちらも社会の底辺層が就く仕事で、給料は安く出世も見込めず世間からは侮られる。親が車引きや巡査だど、その子供はもれなく同じ仕事に就き、いつまでも貧困から脱出出来ない。
巡査といっても現代日本人がイメージする警察とはまったく違う。警察や軍の下部で働く民間の見回り役みたいなもの。一応街の治安を守る存在とされているが、なにせ薄給で装備もろくに支給されないため、ちゃんとした治安維持など出来るはずもなく、誰もがテキトーにそれっぽく見えるよう仕事をするだけ。例えば賭博を取り締まるのでも、現場に踏み込むのではなく関係のない弱そうな人達をしょっぴいてくる、街で火事や民変が起きたらとりあえず終わるまで放っておいてそれから現場に向かう、などなど。
庶民もそんな巡査の実態を知っているから、平時も緊急時も彼らなどあてにしない。そのうえ、武器のある兵士や上部組織の警察が度々理不尽な要求を振っていじめてくる。
主人公はもともと真面目な表具師だったが、様々なことがきっかけとなり、巡査の仕事につく。字が多少読めたので、車引きよりは体裁がいいだろうというのがその理由だった。幼い子供達を養うべく生来の真面目さで頑張るが、組織や社会のいい加減さに振り回されてうまくいかず、善人であるだけ損をしていつまでも浮かばれないまま。
主人公が労働に励むほど落ちぶれてしまう、という展開は「駱駝祥子」と同様だが、社会の腐敗やデタラメさを認識出来ないままだった祥子と異なり、本作の私は巡査という職業の馬鹿げた実態や、清を打倒した新国家・中華民国の歪みなどを理解している(理解しているぶんだけ、絶望も倍増してるわけだけど……)。私は自分の無力を嘆き、ただ社会が良い方向に変わってくれと願うばかりになる。
作中全体を通して労働小説の王道を描いており、貧困の再生産、一度落ちぶれたら二度と浮かび上がれない社会、というのは今の日本に通じる部分も沢山あって身につまされるのでは。

 

「茶館」「四世同堂」など多数の傑作がある老舎作品の中では埋もれがちな一作だと思うけれど、「駱駝祥子」とセットで是非読むべき作品だと思う。学研版の翻訳は解説が非常に丁寧。巡査の実態も詳しく補足されているのでとってもオススメ。

中国小説史略

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魯迅の代表的な著作の一つ。中国における小説文化の歴史についてまとめている。テキストのもとになったのは大学での魯迅の講義プリントである。

中国文学史を深く学びたいなら是非とも読むべき一冊。とはいえ一般向けではないので予備知識も無しに読むと理解の及ばぬ部分も多い。ネットを見回しても本作をきちんと紹介しているサイトが全然見当たらないので、これから史略を読みたいという方向けに色々書いていこうと思う。

まず、本作の生まれた経緯から説明したい。近代以前の中国において、小説は長らく庶民の低俗な娯楽だった。現代人の感覚で置き換えるなら、2チャンネルのスレッドやSS小説あたりといったところだろうか。暇潰しにはいいけれど、形にして保存するようなものではないし、誰も深く読み込んで考察などしない、そんな代物だったわけ。
何故小説が低俗とされたのか。理由は色々あるけれど代表的なものを下記にあげる。

・嘘が多いこと。小説はそもそもが荒唐無稽な内容を多く含む。孔子が「怪力乱神を語らず」と述べたように、元来中国の教養人はオカルトチックな話を信じるのはよくないこととされていた。
・儒教礼儀に背く内容が含まれること。自由恋愛や不倫、殺人や反乱など、人々を面白がらせる話というのは大体背徳的な内容に陥りやすい。中国において学問は聖人の道であり、これらの道徳を無視した物語は当然排除されるべきものだった。特に民間発祥の小説は、為政者にとって都合の悪い内容を含んでいることも多々あったので、禁書の対象にもなりやすかった。

けれども、上記の低俗云々は、あくまで文人層の話。庶民の間では主に唐代以降、講釈師の語りを通して小説文化が広まっていった。学問をしない彼らからすると、聖人の教えやら礼儀云々はどうでもいいので、倫理道徳スレスレの下世話な物語も普通に楽しむことが出来たわけである。現象としては、教養人達や表現規制派が「テレビ番組を見たらバカになる」「ゲームをする人間は犯罪者になる」「○○という人気漫画は教育や倫理的によくない」と突っかかっていくのと似たようなもの。エンタメに関して人間の言うことなんて今も昔も変わらないのだ。
中国の歴代王朝は禁書という対応で度々小説を弾圧したが、それでも庶民の需要を止めるまでには至らず、書店や講釈師も検閲の目をくぐり抜けたので、小説はどんどん浸透していった。中国の文学史をわかりやすく表したフレーズに「漢文唐詩宋詞元曲明清小説」というものがあるが、明清に至って小説は文化の最盛期に至った。印刷技術の発展や書店の流通、そして本来小説を蔑んでいた文人層の中にも小説にドハマリする変わり者がいて、自ら傑作を書き上げたり、書評をしたりするほどになっていた。それでも、表向き小説の文化的地位は相変わらず低いままだった。

しかし、その状況が一変する事件が起きる。西欧列強による中国侵略である。中国の知識人達は、度重なる敗北によって自らの国に欠けているものが何かを考えるようになった。軍事、政治、文化……それらを模索するうちに、何人かの知識人達は、西欧における小説文化が自国と決定的な違いを持っていることに気がついた。西洋では、小説が芸術的な価値を持って人々に受け入れられ、かつ庶民を啓蒙するメディアとしての役割を担っていた(ここらの詳細を語ると長くなるので、気になる方は岩波文庫の「梁啓超文集」に掲載されている「小説と群治の関係」を参照されたし)。
かくして、中国人の小説に対する見方も大きく変わった。小説を使えば、大衆を感化させ意識改革を起こすことが出来ると考えたわけである。幾人かの中国人(主にジャーナリストや雑誌編集者が多かった)は、西洋人の悪辣さや政府の腐敗を糾弾する政治小説を大量に書くようになった。また知識人層は西洋の小説を翻訳したり、自国の小説について研究を始めた。
こうした小説に関する認知の変化は、1910年代の文学革命に発展した。即ち、大衆が慣れ親しんでいる小説文化を改革して、大衆の意識を変え近代的な発展を目指そうというものである。魯迅もまたその一人であった。もともと医者を志していた彼は、西欧列強に侵略されながらも奴隷根性で生き続けている中国庶民を目にして、彼らを癒やすのに必要なのは「体を治す薬」ではなく「心を治す薬」だと考えた。その薬というのが即ち、文学だったわけである。文人達ははじめ西洋文学の模倣をしつつ、後にオリジナリティも加えた小説を書き、近代の中国文壇を形成していった。
こうした文学運動の一環として、自国の小説文化の見直しは必須であった。梁啓超のように、旧来の小説にはろくなものが無いから中国人民が堕落するのだ、と考える者もいれば、王国維のように自国の小説にも「紅楼夢」を筆頭に西洋文学に相当する作品があると主張する者もいた。
ところが、小説研究の中で大きな問題があった。小説文化は長らく低俗なものだったので、研究しようにも文学史をきちんとまとめた書物が存在していなかったのだ。一応、過去にも王朝の命令で目録が作られたり、物好きな文人によって残された記録が多少はあったりしたものの、小説を一つの芸術文化として認識し、体系的にまとめたものは無かった。
そこで魯迅が自らの大学講義をもとに作り上げたのが、この中国古典小説史略、というわけである。

前置きが大変長くなってしまったが、本作の歴史的な価値は主に二つある。
一つは、小説の変遷についてわかりやすくまとめたこと。「小説」という言葉自体はかなり古い時代の書物から存在していた。当然ながら今日の小説とは意味が異なり、正史に含まれぬ野史の分野を専門とする諸子百家の一派だった。魯迅は歴史の記録上に残された小説という言葉を時代ごとに取り上げ、その意味の変遷をわかりやすく本作で述べている。それにより、古代から近代まで、小説が文学上どのような立ち位置を持ち、またどのように発展してきたかが明確になった。
これはちょっと思い出話になるのだけれど、私が大学で中国文学の専門講義に触れた時、まず最初に語られたのが「小説」という言葉の分解だった。つまり魯迅が述べていることと同じで、古い文献の「小説」がいかにして現代と同義の「小説」になったか教えてもらったわけ。専門的な文学講義に初めて触れた私にはとても新鮮な内容だったけど、後々史略を読んでなるほど文学史では基本的な考え方だったのかと改めて唸らされたりもした。
話を戻すと、多くの中国知識人が旧来の小説をけなすか持ち上げるかで躍起になっていた中、魯迅のアプローチはまさに独自のものであり、かつ学術的にも非常に有益だった。実は魯迅以外にも中国小説の通史を作成した研究者が同時代にいたのだけれど、結局魯迅の史略ほど浸透しなかったのは、小説でないものを小説扱いして通史に含んでいたり、そもそも各時代の内容が半端だったり、魯迅ほど内容が一貫していなかったためと思われる。
二つには、主に唐代以降に生まれた小説について細かくジャンルを分類したこと。過去の時代にも王朝の目録などで大雑把な分類はされていたのだが、何せ小説なんて真面目に記録する類のものではないから、ジャンル分けも非常にいい加減だった(明らかに小説でない本が小説として分類されていたり、その逆もしかり)。魯迅は各時代の代表的な小説について読み込み、さらに自ら神魔、狭邪、譴責などジャンル名を作りわかりやすく分類した。魯迅の命名した分類は今日の中国小説研究でも使われており、まさに歴史に残る偉業といえる。

さて、ここまで述べた通り、本作の生まれた経緯にはかなり歴史的な事情が関わっているので、一般向けの本とは言い難い。中国文学をある程度読んでおり、そのうえでさらに深く知りたい、あるいは文学研究をしたいといった段階になって手に取るレベルの本である。
また、研究書として読むにしても留意しておかなければならない点は幾つもある。第一に百年も前の著作なので、内容の多くは現代の文学研究でかなり更新されている。そのまま鵜呑みにして「中国小説史略にはこう書いてあったからその内容が正しい!」なんて言ったらとんだ恥をかくので注意しよう。本作で紹介されている作品については、四大名著はもちろんのこと、マイナーどころのタイトルについても、興味があるなら最新の研究本をあたった方がいい。
さらに言うと、本作はそもそもネットも無ければ資料も存分に集められなかった時代の研究書なうえに、魯迅も手元にあった小説を全て読み込んでいたわけでは無く(何せ清代あたりになると小説ブームのせいで、有名作品の偽物や模倣や二次創作、作者の自己満足を詰め込んだゴミみたいな作品も書かれたりしてたので、魯迅もあまりのつまらなさに投げ出してしまった物もあったそう。また、清末でブームになった譴責小説は政治的内容や作者の強烈な主張が強すぎて物語になっていない作品も多かった)、さらに元ネタが講義内容の繋ぎ合わせであり説明に乏しい部分もある。膨大な注釈を見ればそれがよくわかるだろう。
もし中国小説の通史を知りたい、ということであれば日本の中国研究者がさらにわかりやすい本を幾つか出している。個別の作品について読みたいのであればガイド本をあたってほしいが、生憎日本だとまだまだ一般向けに中国古典小説をわかりやすく紹介したものは少ないのが残念なところ…。ちなみに中国小説史略で紹介されている小説作品は大体翻訳がある。

中国小説史研究書の元祖として、本作の歴史的な地位は今後も決して揺るがないと思う。
ディープに中国小説を楽しみたい方は是非読むべし。翻訳は複数出ているが、個人的には東洋文庫のものがお勧め。お値段は高いけれど、文庫サイズで持ち運びも便利。

唐代伝奇 魚玄機

唐代の伝奇小説。中国の女流詩人・魚玄機にまつわるお話。晩唐の文人・皇甫枚の伝奇小説集「三水小牍」に収録されている。

ものがたり
長安の娘・魚玄機は若くして詩才に溢れていた。清浄な世界を渇望し出家するものの、詩には恋心を詠んだものが多く、それに惹き付けられた男達が彼女のもとへ集まってくる。魚玄機はそんな彼らと交際を繰り返しているのだった。
魚玄機のもとには緑翹という美しい侍女がいた。魚玄機自身が女道士の身で平然と男遊びをしているにも関わらず、緑翹には男と一切交際せぬよう命じていた。ある日、魚玄機の外出中に男が道観を訪れたので、緑翹は門をしめたまま彼を追い返す。帰ってきた魚玄機は、男と親しい関係だったので、緑翹が言葉を交わしただけで嫉妬の念を抱いた。その晩、魚玄機は緑翹を呼び出し、裸にして激しく鞭をうった。緑翹は魚玄機に恨み言を残して死亡。
魚玄機は侍女を裏庭に埋めたが、そこからにじみ出る血痕と死臭で殺害がばれてしまい、裁判のすえ死刑に処されるのだった。

日本では森鴎外によるリメイクで有名。本作と読み比べてみるのも一興だろう。
中国古典小説における尼寺や道観はしょっちゅう不貞行為の隠れ蓑になり、そこにいる女道士や尼も俗人以上に色事熱心だったりする。唐代は中国史の中でも比較的性に開放的だったといわれているが、普通の既婚女性は家庭に押し込められて自由がなく、男と遊べるような環境にいたのは妓女や出家女子だった。

本作は矛盾だらけな魚玄機の生き様が面白い。清浄でありたいと願いながら俗人より奔放に遊び、侍女には厳しい戒律を押しつけながら自分は平然とそれを破る。
緑翹を打ち殺したのは、表面的には決まりを破ったからという理由だが、本当にそれだけだろうか。唐代伝奇は心情描写に乏しいので、魚玄機の動機や内面までは書かれていない。それゆえに読者には想像する楽しみがある。美しく、自分よりも若く、戒律もよく守る緑翹に、魚玄機は穏やかではいられなかっただろうと思う。
明末の「板橋雑記」には本作を彷彿とさせるエピソードが出てくる。年老いた名妓・寇白門が、自分の侍女が愛人といちゃついたと疑い鞭で何百も叩く。女性の嫉妬の矛先は、浮気男ではなく自分よりも弱い女子に向きやすいのだろうか。
魚玄機の最後は自業自得でもあるけれど、そんな情熱的な性格だからこそ優れた詩も生まれた。本作の最後は、彼女の詩の美しさを讃えて終わっている。

唐代伝奇の魅力が凝縮された名作なので、よろしければ是非。

桃花扇 1963年映画版 

中国古典戯曲の傑作『桃花扇』の映像作品。制作は西安電影製片。モノクロ。原作以外に歐陽予倩の話劇版の内容も取り入れている。

あらすじ
明朝末年、王朝の腐敗が進む中、書生の侯朝宗は奸臣を打倒すべく復者の一員として活動していた。そんな彼を慕う南京の名妓・李香君。復者を潰すべく暗躍する奸臣達、北方から攻め寄せる清軍。明の最後が迫る中、侯朝宗と李香君の運命は…。

原作の桃花扇は恋愛、政治、戦争と作中で扱われているテーマが多岐にわたり、登場人物も非常に多い。そのため、時間の限られる映画や舞台のリメイクではどのテーマに比重を置くかが重要になってくる。歐陽予倩の話劇版は日中戦争期に作られたこともあり抗日が主要テーマだった。作中の見せ場である侯朝宗の変節は、漢奸となった汪精衞を揶揄したもの。が、本作の制作は戦後なので当然抗日的な色味は薄い。恋愛や政争も中途半端な感じ。清にくだった侯朝宗の姿をクライマックスにするなら、もう少し心変わりする場面にも時間を省くべきだったと思う。
古い映画なので合戦シーンも無し。江南水郷の景観も、モノクロだとちょっと物足りないかな。妓女達の衣装もカラーで見たい。

とはいえ、長大な桃花扇をコンパクトな長さで楽しめるよい作品だと思う。

王丹鳳/李香君
南京の名妓。義気にも溢れ、腐敗朝廷に対抗する侯朝宗を同じ志の知己として愛する。奸臣達による南京政権が出来上がると強制的に舞妓として呼ばれるが、歌と踊りで彼らを痛罵。清軍が南京を陥落させると寺に避難したが病にかかる。そこで侯朝宗と再会するが…。
演じる王丹鳳さんが美しい。李香君にぴったりだと思う。

馮喆/侯朝宗
南京の若き文人。腐敗した朝廷に立ち向かう義士だったが、戦乱を経て心変わり。清朝にくだって弁髪姿で李香君に再会するも、激しく拒絶されてしまう。
彼なりに考えて恋人のもとへ帰ってきたんだろうに、香君のみならず他の人達からも冷たい視線を浴びる。結構可哀想…。まあ本人もあからさまに清朝ファッションをしていったのがよくなかったかもしれない。

韓濤/阮大鋮
朝廷の奸臣。侯朝宗を陥れ、李香君を無理矢理宮中へ連行し踊りをさせる。本作ではひたすら単純な悪役。

周文彬/柳敬亭
講釈師。老齢ながら義気にも厚く、影から侯朝宗をバックアップする。

虞俊芳/鄭妥娘
南京の妓女。香君とは姉妹の仲。史実では名妓なのだが、どうも桃花扇だとコミカルな役回りにされているような。

「夢華録」の原作「趙盼児風月救風塵」について改めて語ってみる

2022年の中国古装劇「夢華録」を見始めました。古装ドラマに興味が沸いたのは久しぶり。
というのもこのドラマ、原作が有名な中国古典戯曲「救風塵」なのです!(まぁ、日本で知ってる人はあまりいないでしょうけど)
が、しかし……ドラマはかなり改編してあるようで原作とほぼ別物。一応原作の要素は拾ってるんですが、ほぼ原型を留めていない。
なので、原作を知らなくてもドラマは楽しめます。

まあでも一応、元ネタにも興味があるよって方のために、僭越ながらご紹介させていただきます。

「救風塵」は元代の戯曲家・関漢卿の作品で、全四幕構成。別題「安秀才花柳成花燭 趙盼兒風月救風塵」とも。
物語の時代は宋代。舞台は鄭州の妓楼。やり手の妓女として働いている趙盼児は、妹分の宋引章が遊び人の周舎と結婚したがっていることに猛反対、真面目な書生である安集実との結婚を勧める。しかし、世間知らずの引章は盼児の制止を振り切り、周舎と結婚。ところが周舎はほどなく豹変、些細な理由から引章を虐待する。辛い生活に泣く引章。趙盼児はその危機を知ると、周舎を誘惑して偽装結婚を行い、引章と離縁させる。結婚する振りをして逃げ去った趙盼児に対し、周舎は裁判を起こすも、機転のまわる盼児に言い負かされて敗訴。引章は安秀実と結ばれてめでたしめでたし、というお話。

風塵とは泥沼の意味で、つまりは妓女達の過酷な世界を示している。
賤民の妓女達は、妓楼にとらわれた不自由な存在である。莫大な身請け金を稼ぐため必死に働かなければならず、また身請けされても良民の女子のように幸せな結婚生活を送れるとは限らなかった(低い身分出身ゆえ他人から侮られる、妓女としての生活が長いせいで一般女子の生活に適応出来ない、などなど)。「救風塵」は、そんな低い身分に生きる彼女達が、横暴な男達に一発食らわせる展開がとにかく痛快な古典名劇なのだ。男尊女卑的な風潮が強い旧中国において、強く逞しく生きようとする女性を描く、という意味では、ドラマ「夢華録」も「救風塵」のテーマをよく受け継いでいると感じる。

本作は平凡社「中国古典文学大系」で翻訳されている。中編程度の長さで読みやすく、元曲の魅力をわかりやすく味わえるのでお勧め。随分昔だがレビューも書いたのでよろしければ下記リンクから参照されたし。
https://ameblo.jp/hopeseven/entry-12072496500.html

また「救風塵」は2003年にドラマ化されている。こちらも原作改編が入っているが「夢華録」ほどではない(と思う。「夢華録」は全部見てないので)。以前にレビューを書いてるのでよろしければ是非。
https://kouroumu.com/2022/01/02/post-746/

というわけで「夢華録」、続きが楽しみな古装ドラマです。

葉限

唐の段成式の随筆『酉陽雑俎』に収録されている伝奇小説。作者の創作ではなく、家に仕えていた李士元という者から聞いた話が元ネタだとか。そのストーリーの内容から中国版シンデレラとも呼ばれる。

あらすじ
むかしむかし、中国の南に呉氏という偉い人がいました。呉氏には妻が二人おり、一人目は葉限ちゃんという娘を産んで亡くなりました。葉限ちゃんは賢く、砂金を探すのがうまかったのでお父さんに可愛がられました。しかし、お父さんがある時亡くなってしまいます。以来、二人目の妻――つまり継母は葉限ちゃんを虐め始めました。山へ薪を取りに、川へ水汲みに、と毎日のようにこき使うのでした。
ある日、葉限ちゃんは一匹の魚を見つけると、持って帰り鉢の中で育てました。魚はどんどん大きくなり、器に入らなくなったので裏手の池へ放しました。葉限ちゃんが食事の残りを持って池に行くと、魚はいつも水面に顔を出します。しかし、他の人が近づいても決して姿を見せないのでした。
継母はそんな葉限ちゃんのお楽しみが気に入らないのか、ある日彼女を遠くまで出かけさせると、葉限ちゃんの服を着て池に近づき、魚をおびき寄せます。顔を出した魚はまんまと継母に捕まってしまい、あわれ夕食のオカズにされてしまいました。美味でした。葉限ちゃんは魚が殺されたことを知り嘆き悲しみます。すると、天からみすぼらしい格好の仙人?ぽい人が現れて有難い言葉を授けます。「泣くのはおやめ。魚の骨がウンコの下に捨てられてるから、それを拾って部屋にしまっておきなさい。骨に祈れば、欲しいものは何でも手に入る」
葉限ちゃんが言うとおりにすると、食べ物も服も何でも手に入ったのでした。
ある日、継母が着飾って外出したので、葉限ちゃんも骨の力でお姫様のような格好になり、出かけたのでした。ところが、運悪く継母と娘に見つかり、怪しまれてしまいます。葉限ちゃんは慌てて帰りましたが、その時履いていた金の靴を片方落としてしまいます。
さて、靴は葉限達の隣国・陀汗国の人間に拾われました。国王はその珍しい靴を見て、持ち主を探すべく命令を出します。そしてついに葉限ちゃんを見つけました。王は葉限ちゃんを厚くとりたて、意地悪な継母とその娘は処刑してしまいます。
その後、王は葉限ちゃんの持っていた骨で宝石を沢山出しましたが、ある時霊験も失われ、さらに戦乱で骨も行方不明になってしまったのでした。
おしまい。

粗筋の通り、孤児になって働かされる娘、意地悪な継母、不思議なアイテム、脱げた靴、玉の輿、などなどシンデレラに繋がる多数の要素がある作品。ストーリーが似通っているのは人類考えることはみんな同じ説、ギリシャ神話が海を渡って伝わってきた説(本作の舞台はベトナムとされている。終盤に出てくる反乱は徴姉妹の乱とされる)、などがある。
なにぶん唐代の伝奇小説なので、内容はいたってシンプル、というか色々物足りないし、説明不足で超展開になっている部分も多し。まあ唐代伝奇にはよくあることですが。ちなみに唐代伝奇の多くは後代の通俗小説の元ネタになるのだけど、本作はそういった翻案が見当たらない。とてもリメイクのしやすそうな題材だと思うだけど、明清代の小説家の肌には合わなかったのだろうか。
途中から出てくる陀汗という国についても調べてみたが、それらしい国は出てこず実在ではない模様。

作者の段成式は非常に博識な人で『酉陽雑俎』には本作に限らず多数の面白い話が収録されている。おすすめ。

紅楼夢後四十回の薛宝釵と襲人(おまけ)

紅楼夢の後四十回を書いた高鶚先生。
出来については紅迷(紅楼夢ファン)の間で賛否両論分かれるのだけれど、個人的には結構好きで、特に賈宝玉と結婚後の薛宝釵の描写は白眉だと思う。
黛玉の死後は賈家崩壊や金陵十二釵をはじめとする主要ヒロイン達の退場劇が続くので、どうしても宝玉夫婦の生活描写はそれらの物語の中に埋もれがちなんだけれど、ここでは薛宝釵のヒロインぶりが最高潮に発揮されていると思う。
悲劇の婚礼、その後も半分廃人の旦那、崩壊していく賈家、不幸続きの実家、そんな状況でも彼女はひたすら己を保ち妻としての役目を果たそうとする。
なんというか、結婚後の宝釵はいろんな意味でふりきれている。一つには黛玉への仕打ちに対する罪悪感があったんじゃないかと思う。聡明な彼女は宝黛の仲を察していただろうし、仲のいい黛玉を騙すような真似をするのは忍びない。かといって偽装結婚に協力しろという親の命令にも背けない。結局、彼女は後者を選んだ。黛玉は亡くなり、宝玉は精神を病んでしまう。けれど後戻りは出来ない。宝玉がさらに壊れてしまうのを恐れて周囲が黛玉の死因を明かせない中、宝釵は荒療治とばかりその死を伝える(結果的に宝玉は回復を見せた)。このあたり、もう宝玉に対する責任を全て背負っていこうという覚悟していたのではないか。
もう一つは諦念だ。宝釵は商家の娘で、貴族のお嬢様でありながら経済観念がしっかりしている。物語の中盤以降は探春の補佐として賈家の経営にも少なからず関わっている。だから賈家が傾き始めていることも薄々察していたはずだ。しかし彼女は女子。科挙を受ける資格も無いし、商才があっても男子のように外へ出て働いたり出来ない。だから自分が結婚した夫に尽くし、彼が社会的成功をおさめられるようにするしかない。それは封建社会における賢妻としては紛れもなく立派なスタンスなんだけれど、結局そのせいで宝釵は自分の首を絞め、ますます己を不幸に追いやってしまう。悲しいことに、聡明な彼女ですらそのからくりに気がつかない。
そんな彼女の涙ぐましい献身の真骨頂が第百九回だ。結婚後も死んだ林黛玉を延々と想い続ける宝玉を、宝釵はどうにかして正気に戻そうと考える。それは生きている自分の色香でもって宝玉を誘惑し、死んだ黛玉を忘れさせようというものだった。思惑はうまくいき、夫婦は寝床を共にする。ちなみにこれが二人の初夜。いやぁ…でもこんなの嫌すぎるだろ。夫が他の女を思ってるのが明らかな状態で、無理矢理自分から誘惑するなんてさぁ。こういうことを冷静な心理でやってのけちゃう宝釵は、やっぱりどこか吹っ切れていたんだと思う。
自分の幸せは度外視で、ひたすら夫と賈家のため。献身のあまりか自分の誕生日も忘れていた(第百八回)。周囲の大人達も(自分達がそういう立場へ宝釵を追い込んだのをそっちのけで)不幸な結婚生活を心配する。
度重なる説得にも宝玉は心を動かさず、それどころかますます浮世離れした言動が増えていく。宝釵はついに気持ちを爆発させる。いつもの理屈じみた説教が、ついには懇願に変わった。お願いですから、心を入れ替えて家のために勉強してください、と。それが既に俗世への興味を無くしていた宝玉の心を、ほんの僅かに動かしたのか、彼は科挙を受けて及第する。が、結局因縁を変えるには至らず、彼は失踪してしまう。宝釵もこれには泣き崩れるしかなかった。
ただ、原稿本の彼女には救いがある。宝玉の子供がお腹に宿っていたのだ。賈家復興の希望は次世代に託されることになり、宝釵もそれを糧に立ち直る。
曹雪芹の原案に準じるなら、多分宝釵にこういうハッピーエンドを与えるのはいけないのだろう。けれど悲惨な結婚生活の描写を見ると、まあこれくらいの救いはあってもいいんじゃないかと思ったりする。そんなわけで、自分は割と好きなエンド。

ちなみに後四十回といえばもう一人触れておきたいヒロインがいる。宝玉の筆頭侍女・花襲人だ。後四十回における彼女はかなり悪く描かれている。
悪気は無いとはいえ(だからこそ余計に質が悪いともいえるけど)偽装結婚に荷担し、しかも黛玉が死んだ直後に彼女を貶めるような発言をする。結婚後は実質的な妾の立場だが、宝釵のせいで明らかに損をしている。襲人は美貌教養何一つ宝釵に勝てる部分がない。特に教養の差は顕著で、宝釵と並んで発言すると襲人の方は明らかに考えの浅さが出てしまう。事件が起きても泰然としている宝釵に対し、襲人は常におろおろし泣き出す。賈家の正妻として子種を得た宝釵、身分の低い役者と再婚させられて高貴な身分におさまれなかった襲人(これは原案通りとはいえ)と、ラストも明らかに差がつけられている。
そのうえ宝玉からもかなり冷たい扱いをされる。通霊宝玉を守ろうとしたら「僕より玉の方が大事なんだね」と嫌味を返されたり、一緒に出家したいと願い出たら撥ねつけられたり、なんかもう踏んだり蹴ったりである。
これらの扱いは、高鶚先生が襲人を嫌いだったか、宝釵の良さを強調するためあえて襲人を道化役に貶めたか、のどちらかではないかと思っている。あるいは両方。
もちろん襲人も可哀想ではあるんだけど、基本全部自分で墓穴を掘っているのが悲しい…。平児・鴛鴦・紫鵑あたりと比べ侍女としての忠を貫徹出来た感じはしないし、最後の死ぬ死ぬ詐欺も単純に「周りに迷惑をかけられないから」って思いだけじゃなくて、「正妻になれるし夫も優しいからちょっと様子を見よっか」程度の打算は入ってると思う。
邪推のし過ぎか…。うーん、やっぱり私も襲人が嫌いなのかもしれない…笑

紅楼夢のよくある誤解について

中国古典小説の最高峰である紅楼夢。しかしながら、三国志演義や西遊記に比べると、日本人で本作を読む方々は少なく、そのせいかネットでも誤情報が相当に出回っている。なので、ここではそうした状況を少しでも是正すべく、よくある誤解について書いていきたい。

・紅楼夢はエロ小説 
令和時代になっても未だに言われ続けている本作最大の誤解。原因はいくつかあると思われるが、主要なものは本作でよくいわれるキャッチコピー「中国版源氏物語」、主人公・賈宝玉の有名な台詞「男は泥の体、女は水の体」、主要ヒロインの金陵十二釵を取り巻く設定、あたりだと思われる。
が、本編を一度でも読めばわかる通り、紅楼夢では全百二十回を通してもセックス場面は殆ど無い。主人公の宝玉も(今風に言えば)屈指のフェミニストであり、女性に対しても肉体的ではなく精神的な交流を重んじている。ともかく紅楼夢をエロ小説呼ばわりする人はまず間違いなく本編を通読していないので、そういう人の感想は信用してはいけない。

・中国版源氏物語
一体誰が言い出したのか、よく使われるこのフレーズ(初出を知っている方がいたら是非教えて欲しいです)。私は結構的外れだと思っている。確かに賈宝玉も光源氏も、大貴族として華やかな日々を送り、周囲に多数のヒロインが存在するなど、外側の設定に共通点が多い。しかし、肝心の中身が全然違う。詳しくは過去記事にも書いてあるのでよければそちらを参照のこと。源氏物語と紅楼夢 主人公比較

・林黛玉はツンデレ、薛宝釵は優等生
紅楼夢メインヒロインの二人を端的に言い表したもの。が、二人ともそんな単純なキャラクターではない。黛玉の場合、ツンデレというのは彼女の数ある属性の一つに過ぎず、とても彼女の全てを言い表せるものではない。宝釵もいい子ぶりが度を過ぎていて完全に変人の領域。時々さらりと出てくる冷徹な台詞は、黛玉と別ベクトルで相当性格が歪んでいる何よりの証拠だと思う。ちなみに二人の偏りまくった人物造形はもちろん作者の意図によるものである。
ところで、中国には「彼女にするなら林黛玉、妻にするなら薛宝釵」というフレーズもあるが、私的にはどちらも理想とは思えない(笑)。意見は別れると思うけれど、私なら彼女にはトークが楽しい史湘雲、美貌教養兼ね備えながらまったく癖の無い薛宝琴、奥さんなら聡明な賈探春、守ってあげたくなるような性格の賈迎春、清貧な邢岫烟あたりを推す。

・花襲人は理想のメイド
賈宝玉の筆頭侍女・花襲人。美しく有能で、ワガママな主人を時に厳しく、時に優しくしつけてくれるお姉さん。そんな彼女を理想のメイドと思い込む読者(男に多いけど)もいるようだが、実際は女子に相当嫌われるタイプの女子だと思う。確かに外面はいいけれど、要所の言動・行動がいちいちセコい。晴雯に対してうっかり(というかわざとだろ)自分の方が宝玉様に愛されてますよアピールをしたり、屋敷での不義を疑う王夫人に対し、自分が宝玉と密通していたことを棚上げして「誰も怪しい者はおりません」とか言ったり、ちょくちょく宝玉に対し黛玉をディスる発言をかましたり(本人的には宝玉には黛玉よりもっと相応しい相手とくっついて欲しい、という善心からなんだろうけど、善心だからこそかえって害悪)、実は結構嫌なところが目につく。宝釵との結婚式も平然と陰謀側に加担してるし。
作者が襲人をどう思っていたかは、高貴な若様とではなく下層身分の役者と分相応の結婚をした、という結末がよく物語っているのではないか。もっとも、こういう女子の美点欠点を分け隔て無く描いているからこそ、紅楼夢は傑作なのだ。

なんかもっと色々あると思うんですけど、今回はこのへんで。
そういえば水滸伝についても七十回本支持派の人を見かけたりするけど、あれも最終回を豪傑終結の大団円で終わってると勘違いしているような気がするんだよなぁ。実際は夢の中で豪傑全員が雑に処刑されるオチで、私はちっともいい終わり方だとは思えないけど。これもいずれ語りたい。

虎頭牌

中国古典名劇選III [ 後藤裕也 ]

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世話物の元曲。作者は李直夫。「拝月亭」「射柳捶丸」「麗春堂」など、元曲には金朝が舞台もしくは女真族が主要人物のタイトルがいくつか存在する。

ものがたり
女真族の武将・山寿馬は朝廷より功績を讃えられて出世し、それまで就いていた千戸の地位を配下に譲るよう命じられる。折しも、育ての親である叔父夫婦が山寿馬のもとを訪問してきた。叔父の銀住馬は、これまで育ててやった恩返しにと、山寿馬に千戸の地位をねだる。山寿馬は酒癖の悪い叔父を心配しつつも任命。が、案の定銀住馬は任地で酒を飲み敵の略奪を許してしまう。どうにか奪われたものを取り返したが、彼を待っていたのは甥による処罰命令だった。銀住馬は自らの非を認めず乗り切ろうとするが、結局棒で四十打たれ、甥を酷く恨む。しかし真に苦しんでいたのは叔父を打たなければならなくなった山寿馬の方だった。山寿馬は虎頭牌を叔父に示し、処罰が自らの意思では無く軍令によるものだったと打ち明け、互いに和解の杯を交わすのだった。

本作は主要人物が女真人で占められており、台詞の一部には女真語も用いられている。当時は蒙古人の支配下であり、かつての征服者だった女真人が漢人と大衆文化を共有していたことは興味深い。本作の作者である李直夫は女真族の出身だという。ちなみに元曲の大家だった関漢卿も金の遺民説がある。元曲の作者は下層知識人が多かったという。戯曲作家の道は、科挙も無くなって暮らしに窮していた文人達にとって一つの生計手段だったが、伝統的な漢人の知識人からすると、いくら蒙古人の支配下で落ちぶれようが「庶民相手の戯曲作家なんて、いっぱしの学問を身につけた男の仕事じゃないやい!」というプライドが多少はあったかもしれない(当時、小説などの大衆文学は知識人層からすると低俗で手を出すべきものではないとされていた)。だからこそ、そこらへんに拘りのなさそうな女真人知識層が劇作家として花開いたのかも、なんて思ったり。元曲がもともと北方で隆盛した文化なので、素朴な作風が北方人の好みにマッチしていただとか、他にも色んな理由はありそうだけど。

ストーリーは上記の通り、親子の情愛を描いた作品である。こういうお話に民族の隔てはない。また時代の隔ても無い。現代人でもじゅうぶん楽しめ、共感出来るものとなっている。銀住馬はただの酒飲みジジイかと思いきや武功も備えていて、失敗はしつつもちゃんと略奪品を奪い返している。こう書くとなんか演義前半の張飛みたいだが、自分の過ちに対して平然と開き直るあたりが年寄りらしい。「息子のくせにワシを罰するとは何事ぢゃ!」と逆ギレする姿とか「千戸の位をくれ、頼む」とずうずうしさを発揮する姿はまさに老害。虎頭牌さまさまである。

桃花扇 小田嶽夫版

芥川賞作家・小田嶽夫による中国古典戯曲「桃花扇伝奇」のリメイク小説。
内政の腐敗と清朝の進軍で危機に陥る明。そんな中で繰り広げられる文人・候方域と名妓・李香君の悲哀を描く。

まず日本人作家が桃花扇の物語を書いていたことに驚いた。そんなわけで古本屋を探し回りゲット。
戯曲だった原作をうまく小説化しており、特に物語はとってもわかりやすく整理され、長さも中編程度で綺麗にまとまっている。登場人物については、明の奸臣達の偽善的で堕落した姿がかなり強調されている。そのぶん、主役カップルや史可法と河北四鎮などの描写が薄くなってしまったかも。
現代作家の手によるものなので、原作ではかなりぼかされていた清軍南下の背景もきっちり描かれている(原作の桃花扇は清朝期に書かれた作品なので、清を侵略者として描くことが出来なかった)。もっとも、これは現代中国のリメイク版でも普通に描けるようになっているから、本作だけの特徴ではない。
ラストの展開は原作と異なり、清に降伏する道を選び弁髪になってしまった候方域が、出家していた李香君から冷淡な眼差しを投げられ破局するというもの。
私はてっきり、これは欧陽予倩の話劇版を踏襲したものだと思っていた。あとがきによれば作者も欧陽予倩の話劇版を読んでいたという。ところが、同じあとがきの中で「話劇版は(原作と比べて)参考にならなかった」と書いてある。んん? じゃあなんであのラスト? 谷斯范の新桃花扇も参考にしたといっているので、そちらからヒントを得たのだろうかと思いきや、参考にはしたが趣きが大分異なっているそうなのでやっぱり不明。
そのうえ、他にもおかしなことが書いてある。候方域が愛に殉じた人物だった、というものだ。それは違うと思う。候方域も李香君も義と忠の人であり、二人の絆もそれによって結びついていたものだ。原作では国家の滅亡で、二人は愛ではなく出家を選択する。それは紛れもなく国への義と忠によるものだ。欧陽予倩版で二人が破局したのは、候方域がこの義と忠に背いたからだ。要するに信条への裏切りであって、愛に殉じたという綺麗な言葉で片づけられるものではないと思う。
このあとがきのわけのわからなさ、もしかして作者は桃花扇の物語をちゃんと理解していなかったんじゃなかろうか。実はラストに至るまでの展開も結構違和感がある。李香君側の心情描写が殆どないので、何故彼女が候方域を突き放そうとしたのか、いまいちよくわからない。私は欧陽予倩版話劇と同様、候方域の変節が理由だと考えているけれど、作者本人が参考にならなかった、と言っているくらいだから違うのかもしれない。

日本人による桃花扇のリメイク、という点では貴重な作品なのだけれど、特に面白いアレンジがされているわけでもないし、これなら普通に原作か欧陽予倩版を読んだ方がいい気がする。