環肥燕瘦

久々に中国語のことでも。
今回ご紹介したいのは「環肥燕瘦」という言葉。環は唐の楊貴妃(彼女は名を玉環といった)、燕は漢の趙飛燕を示す。前者はぽっちゃり美人として、後者はスレンダー美人として有名。つまりそれぞれの異なった美しさを表現した言葉。
出典は蘇軾の「墨妙亭詩」。実はここで出てくる環肥燕瘦は、字体の多様な美しさ(細い字も太い字もそれぞれ良さがある)といった意味合いで用いられていて、女性の美について述べたものではなかったりする。それが後代になると、徐々に意味が現代に通じるものへ変化していったようだ。

ところで、やせ型美人とぽっちゃり美人の対比で私の頭に浮かぶのはやっぱり「紅楼夢」の林黛玉と薛宝釵。しかし作中だと前者は西施、後者は楊貴妃にたとえられている。どうして「環肥燕瘦」ではないのだろう。ちょっと考えたんだけど、趙飛燕は健康的なやせ型美人、西施は顰に倣うの故事もあって病弱なイメージだからかもしれない。飛燕は掌や壇上で軽やかに舞ったエピソードとかもあるし、不健康な黛玉には少々そぐわない。宝釵も薬を飲んでたりするんだけど黛玉に比べたら全然健康的な感じ。しかし作中では、人が集まる場所にいるだけで汗をかく、腕の肉が太いせいで腕輪がなかなか外せない…なんて描写もある。ううん、ちょっと健康的を通り越して太り過ぎでは…? 本人も宝玉にからかわれてキレてたから、意外と気にしてたかも。まあ、当時の適正体重がどんくらいとかは知らんのだけど。
話を環燕に戻すと、飛燕には合徳という妹がいて、こちらも漢の成帝に愛されて姉に匹敵する地位を得ていたんだけど、彼女はスレンダーな姉と違ってふくよかで肌のつやつやな美女だったとか(小説「飛燕外伝」など)。楊貴妃との知名度の差もあるんだろうけど、徳肥燕瘦にはならなかったわけですね。

「中国古典から学ぶ~」系の本は地雷だらけ、という話

個人的に、日本における中国関連書籍の中でも、一番ハズレを含んでいるのがいわゆる「中国古典から学ぶ~」系のビジネス・自己啓発本だと思ってる。「論語から学ぶリーダーシップ」だの「三国志から学ぶ仕事術」だの、まあそういう類の本。
具体的に何がダメかというと、

・古典の権威を借りて、平凡なフレーズや主張を、さも立派な格言であるかのように飾り立てる。
・作者が自分の主張を通すために、原書の意図をねじ曲げる。

といったことが頻繁に起こるため。そもそも、古典というのは古くから注釈がいくつも作られているのを見ればわかるように、読む側が好き勝手にねじ曲げ解釈出来てしまう余地がある。とりわけ洋の東西を問わず、経書や聖典が特にそう。だから「古典から学ぶ~」系の作者は、自分の都合のいいように古典の文句を引っ張って、さもそれが正しい意味であるかのように書き立ててしまう。また、古典には歴史の重みがあるから、小学生が言いそうな理屈でも何だか立派な言葉のように錯覚させることが出来る。
それでも、作者がきちんと引っ張ってくる古典をきちんと読み込んでいるなら、まだいいと思う。少なくともそこまで的外れな内容にはならない。
が、世の中には「これ、もとの本を読んでないんじゃないのぉ?」というくらい、古典を用いてトンチンカンな本を書く人もいる。
今回買ってしまった「水滸伝に学ぶ組織のオキテ(平凡社新書)」は、まさにそんな書物だった。

いやね、タイトルから地雷臭は感じてたんですよ。でも平凡社さんから出てるし、何より水滸伝から組織論を語る、という着眼点は良さそうだし…と思ってキンドルでポチったわけです。
で、読んでみたらもう…ね…。

まずこの本、内容の三分の二が、水滸伝本編のあらすじの追っかけになっている。なので、肝心の組織論について全然語られていない。これだけでもう大分ハズレ。本編を読んでない人向けに物語を説明するのは必要でしょ、という意見があるかもしれないが、だとしても馬鹿正直に物語を最初から最後まで平坦に紹介する必要性は皆無(実際のところ、水滸伝の面白さは前半の豪傑単独のエピソードに集中しているのだけれど、それをいちいち話していたら柱のテーマである組織論の話が出来ないんだから、そのあたりは積極的に削ってしかるべき)、なので単に紙幅を肥やそうとしてるようにしか見えない。
で、その三分の一しかない組織論がまた酷く薄っぺらい。宋江が晁蓋から礼物をもらったことに関して「高価な礼には注意しよう」とか、武松の藩金蓮殺害エピに関して「証拠集めが肝心だ」とか、読んでいるだけで頭が痛くなってくる。そんなしょーもないことを言いたいがために水滸伝を使うんじゃねぇ!!

あと、本を全部読んでみて、作者の稲田氏は水滸伝を通読していないんじゃないかと思った。
あらすじを平坦に紹介(ただの物語紹介にしたって、もっと水滸伝を読んでみたい!と思わせる書き方が出来ないのかと思った)したのもそうだし、内容に触れている箇所でおかしな点が多すぎる。
例えば梁山泊の席次について、作者は「もともと宿命で順序が決まっているから順番の決め事は重要ではなく能力が重要だ」云々と語る。んなわけがない。本編では新たな仲間が入山する度に、席次の変化が繰り返し詳しく述べられている。順序にもきちんと意味がある。百八星の並びが九天玄女のお告げや石碑文で定められている、というのは正解の半分でしかない。なぜなら、百八星終結後の序列は、明らかに宋江の目的が運営しやすい体制に並び替えられているからだ。
ちょっと詳しく解説しよう。
宋江が目指したのは、忠義の軍を作って朝廷に帰順することだ。けれども梁山泊の豪傑達は色んな事情で集まってきたから必ずしも一枚岩で無い。山賊暮らしで一生をやっていきたいという者もいた。朝廷なんか潰して宋江を皇帝にすればいいと冗談を吐く過激派もいた。それらをうまくコントロールするために作られたのがこの席次なのだ。
え、そんなこと本編で説明されていないって? そうだね。でも、席次をじっくり眺めれば色々と見えてくるものがある。
例えば第二位の盧俊義。席次の高さと裏腹に、本編ではだめっぷりが目立つ男。なんでこんなのが二位なんだ…と思う読者は多いんじゃなかろうか。けれども、盧俊義がこの順位でなければならない理由が実は沢山ある。
宋江は周囲に推されて一位になったが、武芸も弱く見た目もしょぼく身分も低いオッサンである。要するに組織の長としては華が無い。一方の盧俊義、北京の大商人で、(一応)武芸の達人、さらに風采も備える。つまり、宋江には無いものを全て持っている。だから横にいてくれるだけで、宋江の外面の欠点を全て補ってくれる。それでいて、戦をやらせたら無能。けれども、そういうヘマをするヤツだから宋江の地位を脅かす危険は薄いし、能力が無いから梁山泊の方針にうるさく口出ししてくることもない。ナンバーツーに置いておくにはまたとない、安心出来る人材なのだ。
他にも、五位以下の連中を見てみよう。関勝、林冲、秦明、呼延灼、花栄と並ぶ。このうち四名は、軍の中核である騎兵のメンバー。そもそも宋江の目的は忠義の軍勢を作ることだから、特に重要な騎兵の配下は、彼の思想に共鳴してくれる者でなければならない。
このうち、一番厄介な男が林冲である。梁山泊の古株で、席次も高く、騎兵の将でもあるから当然高い席次に置きたいが、彼は根っからの帰順反対派である。となれば、周囲に賛成派を置いて封殺するしかない。
五人のうち、関勝は「今の朝廷は良くない」と不満を言いつつも、もとは熱心な忠義軍人、秦明と呼延灼も高位の軍官で、帰順には文句を言っていない。そして花栄は宋江の親友なので当然宋江派。ちなみに秦明は花栄の妹を奥さんにもらっているので、彼のことは無下に出来ないはずだ。大体、実力があるとはいえ新参な関勝(もとの身分はしがない捕り物役人)が林冲より上、という時点で、この席次に宋江の意図が働いていることは明白なのだ。関羽の子孫だから五位なんでしょ、なんて単純なものではない。水滸伝は奥が深いのだ。
他にもざっくり語ると、十位の柴進や十一位の李応は高過ぎず低すぎない位置。この二人は梁山泊の大事な財源バックアップであると同時に、ナンバーツーに置くと宋江を脅かす危険性がある。というのも、二人は梁山泊解散後あっさり隠遁したことからもわかるように、もともと朝廷のために尽くそうという志が薄い。トップに置いたら必ずしも宋江の方針に共鳴はしないだろう。また、柴進も李応も多数の食客をもてなす財力と人望があり、盧俊義と違って有能である。前線に出したらきっちり活躍してしまうのだ。とりわけ柴進は後周の末裔なうえに、もともと宋江に匹敵する声望の持ち主である。こういうのは放っておくと、梁山泊内に強力な派閥を生み出す可能性がある。だから下手に高い席次よりは、ほどほどのところに置いておき、普段は地味な後方支援にまわしておいた方がいい…なんて意図が働いていたのではと想像出来る。
派閥といえば、皆が思うのは李俊をはじめとする水軍勢だろう。梁山泊がいくら攻められても陥落しなかったのは、ひとえに彼らの存在によるところ大きい。そして彼らは根っからの帰順反対派。しかし、宋江が梁山泊を忠義の私軍へとどんどん改編していったので、戦力の中核は騎兵になり、水軍勢の席次も貢献度の割に天罡星の後ろへ追いやられ、発言力を失っていく。李俊がようやく声をあげた時には、もうすっかり宋江体制が出来上がってしまい手遅れだった。結局、義理もあって李俊達も帰順の方針へ従ったわけだが、これもすべては宋江(と呉用)がうまくことを運んだ結果だろう。
また、上位層の帰順反対派といえば武松や李逵が挙げられるが、彼らは反対派といえど宋江とは仲の深い関係である。兄弟の義理を持ち出せば、まあ兄貴のためだから、と動いてくれる。一番あぶなかっしい李逵については、宋江が要所で直々にしつけなければならないが、基本的には忠犬なのでよく働くし、朝廷のためではなく宋江のために戦う分には文句は言わない。また彼らの周辺も宋江の仲良しもしくはもと朝廷の軍人or役人でかためられている。ゆえに、反対されても宋江の方針が通りやすい序列になっているのだ。
……と、一介の水滸伝ファン私である私でさえ、席次一つでもこれだけ組織に関する妄想と分析を並べ立てられるのに、稲田氏ときたら「席順は石碑文による宿命だから~」ときた。浅すぎ!! そもそも、水滸伝への愛が足りないんだよ、愛が! こういう本の書き手には、まず第一に作品のファンであって欲しい。愛があれば言葉は拙くても、熱量が読者に伝わる。正直、あとがきを読んで「ああ、とりあえずこの人は水滸伝をめっちゃ好きでもないし、本気で世に広めたいほどの情熱は持ってないんだなー」と思ってしまった。原作をいくら読もうが、旅行で梁山泊に行こうが、作品への愛の無い者が、他人へその面白さ・魅力を伝えるだけのエネルギーを本へ注ぐのは無理だと思う。
あと、ついでに言っておくと、利益追求を目的とする現代日本の企業と、国家防衛を目的とする私軍集団(当初は単に生き延びるために身を寄せあってる賊の集まりだけど)という、全然比較しようもない両者を並べて組織かくあるべしと語ろうとしたのに無理があると思う。編集さんはそのあたり突っ込まなかったのか。恐らく編集も水滸伝読んでないね…。

結論
「中国古典から学ぶ~」系はやっぱり地雷多し。

白髪魔女伝 1980年版

1980年の武侠映画。制作は香港長城電影公司。
原作は武侠小説の大家・梁羽生の代表作「白髪魔女伝」。何十回も映像化されている作品なのだけれども、恐らく物語的に一番原作に忠実なのがこの1980年版。
唯一、設定として異なるのは練霓裳がもとから変装し「白髪魔女」として名を知られている点。

あらすじ
明末。朝廷は腐敗し、各地では李自成軍による反乱が起きていた。武当派の弟子・耿紹南は朝廷の高官である卓継賢を護衛中、緑林の侠盗「白髪魔女」に襲われ負傷、輸送中の金もことごとく奪われてしまう。一方、武当派の高弟・卓一航は旅の途中で美しい娘に出会った。ほどなく、彼は朝廷との争いに巻き込まれ、そこで出くわした白髪魔女の正体が娘であることに気がつく。心を通わせる二人だったが、朝廷と武当派との戦いがその関係に亀裂を広げていき…。

原作(未読なので粗筋しか追えてないですが)をほどよく端折りつつ、うまく映画の尺におさめている感じ。先にも書いたが、本作の練霓裳は最初から白髪魔女を名乗り江湖で侠盗をしている。理由はその美貌を人に見られたくないため、わざと白髪の鬘を被り、ベールで顔を隠している、と説明される。まあ最終的には原作通り悲憤から白髪になるので、わざわざ改編する意味があったのかどうか。
80年代の制作ということもあって、アクションは現代の目から見ても十分いい動き。特に主演の鮑起静さんが滅茶苦茶頑張っていたと思う。

キャスト
鮑起静/練霓裳(白髪魔女)
江湖に名を馳せる侠盗。天山剣法の使い手。ベールに顔を包み、白髪に白い衣装の風貌をしているが、正体はまだ若い娘。卓一航と心を通わせるが、様々な障害に阻まれ決裂する。
演じる鮑起静のアクションが素晴らしい。当時31歳だとか。

方平/卓一航
武当派の高弟にして祖父と父は官僚でもある名家の生まれ。腕は立つが優柔不断。最初の練霓裳との場面、テンションの起伏が激しい彼女にドン引きしているように見えるのが何とも…笑
最後、泣きながら練霓裳にすがっている場面も実に情けない。

平凡/鉄飛龍
山中に隠棲している達人。ひょんなきっかけで練霓裳を義理の娘にする。何かと暗い本作の中で画面を明るくしてくれる陽キャラ。

劉雪華/鉄珊瑚
鉄飛龍の娘。練霓裳の山塞から剣の奥義書を盗み出したが、そのせいで朝廷からつけ狙われることに。向こう見ずだが義侠心は強い。道中で助けた岳鳴珂と恋仲になる。
演じる劉雪華は今でもテレビドラマでよく見かける名優。本作ではとっても若々しい。

蒋平/岳鳴珂
天山派の弟子。腐敗した朝廷との戦いに身を投じ、鉄珊瑚と恋仲になるが…。本作では彼のその後については描かれず。

江汉/慕容冲
朝廷随一の使い手。白髪魔女を倒すべく、武当派とも手を組む。朝廷絡みの話は長さの都合上、削られている。

?/白石道人
武当派の長老。白髪魔女に弟子を傷つけられた恨みから敵対。彼女に傾倒する卓一航に対しても不満を募らせる。原作では四長老の一人だけど、映画では尺の都合もあって一人に集約された。

百度リンク
https://baike.baidu.com/item/%E7%99%BD%E5%8F%91%E9%AD%94%E5%A5%B3%E4%BC%A0/10659608?fromModule=lemma_inlink

リメイクとしての仮面ライダー 「シン・仮面ライダー」と「仮面ライダー THE EIRST」

シン・仮面ライダー見てきました! めっちゃ面白かったです。
石ノ森章太郎の原作漫画およびTV版をかけあわせたリメイクな感じ。
ただ、なんというか、オタクとして力の入れどころが少しずれてるんじゃないか…というのが最終的な感想でした。
実は、本作以前に同じようなアプローチをした作品が作られているので、鑑賞後は頭の中でなんとなーく両者を見比べてしまいました。
そう、2005年公開の「仮面ライダー THE FIRST」です。続編の「THE NEXT」も含めて二作作られたのですが、こちらも石ノ森章太郎の原作漫画およびTV版の要素を盛り込んだリメイク映画でした。

どちらにも良い点、悪い点があるのですが、二作を比較しながら「シン」の感想を書いてみよう、ということで以下、だらだらと語っていきます。ネタバレ全開です。あと「THE FIRST」シリーズも視聴前提で書いてるのでご注意ください。

・本郷猛について
仮面ライダーとはどんな存在か。原作漫画およびTV版では、世界征服を目指す強大な悪の組織に、一人で立ち向かうヒーロー(一応、協力者はそれなりにいるにせよ)というのが、概ねファンの見解だと思います(ですよね…?)。孤高であるからこそ、本郷のヒーロー姓、改造人間としての悲しみが際立つわけで。
「シン」の本郷はこの点、あんまり満たしていなかったのではないでしょうか。特に前半、基本的に戦いを主導する立場にいるのはヒロインのルリ子で、本郷は彼女のボディーガード的な立ち位置に留まっている印象でした。そのうえ、アンチショッカーを標榜とする組織の人間達もなかなか優秀で、積極的にショッカーへ攻勢をかけるし、自分達で怪人も倒してしまうしで、これでは本郷のヒーロー性がどうしても薄まってしまいます。
翻って「THE FIRST」は、改造人間にされた自身を受け入れる時間も与えられず、周囲に理解者もおらず、そんな中でショッカーが次々に刺客を送ってくる、と本郷の孤高を物語の中できちんと演出していました。まあ、こちらも「シン」同様、ショッカーへ挑んでいく理由が惚れた女を助けるため、という個人的な動機だったのですが(二作目のNEXTでは、前作よりり作中年月が経過していたためか、考え方もただ人類のためにショッカーを倒す、というヒーロー的な理由になってました)。
なので、本郷猛の再現としては「THE FIRST」の方が原作にもTVにも近かったのでは、という気がします。
ちなみにライダーのビジュアルはどっちも好きです。

・ショッカーについて
正直「シン」がショッカーの設定をがっつり改編したのには驚きでした。「シン」のショッカーはシンプルな世界征服をたくらむ悪の組織、ではありません。ここは変にあれこれ理屈をつけ加えて欲しくなかったなぁというのが正直な感想。世界的な組織にも関わらず、創設者絡みの話が絡んだせいで、妙にスケールの小ささを感じました。
あと、怪人達のハイテンションなイカレぶりは明らかに失敗だったと思います。原作にあった怪人たちの不気味さって、そういうとこじゃないだろ~、と。グロテスクな暴力演出もねえ。血が出るとかじゃなくて、人が溶けるとか、顔中に不気味な痣が浮かぶとか、初代のホラー演出だったと思うのですが。やたら説明的な台詞も何だかな。けれども、生物感とメカニカルな感じをかけあわせたデザインは凄くよかったです。
「THE FIRST」におけるショッカーの設定は、ほぼ原作そのまんまです。怪人達は狂気を感じさせながらも抑えた演技をしていたと思います。が、スネークやコブラといった、善人をベースにした怪人の悲劇をきちんと描ききれなかったと思います。正直、ストーリーの後味を悪くするだけで作劇上何のプラスにもなってませんでした(本郷達はスネークやコブラが、もとは完治出来ない病に冒された少年少女だと一切知らないまま、ただの怪人として倒してしまう)。さすがに制作陣も失敗だと思ったのか、続編の「THE NEXT」は同じパターンを踏襲しつつも、もう少しうまい感じに話をまとめてました。
悪の組織としてのスケール感は、複数の幹部が出てきたり、社会の中で暗躍している感じが描写されたり、原作とテレビに通じる再現度でした。

・戦闘演出
「シン」の戦闘演出は、初代のリスペクト+アニメ的な構図やカットの多用です。戦闘ポーズをとった時の効果音、戦闘している場所(ダムとか工業地帯とかトンネルの中とか)、飛びかかってくる戦闘員のカットとか、空中のトランポリンジャンプとか、初代仮面ライダーを見てる層には涙チョチョ切れそうな描写ばかりです。
けれど、リスペクトばかりではなく、初代の特撮では技術不足で出来なかったかっこよさの追求も徹底しています。サイクロンの変形とか、ライダーの凄まじい跳躍とか、このあたりは監督のオタク的なこだわりが全開でよかったですね~。怪人は爆発で締めてほしい気持ちもあるんですけど、作劇の都合上、あの死に方が合ってるし、これはこれでアリかな。
ラストの流れも最高。ダブルライダーはやはり燃える。「本郷!」「一文字!」やっぱコレよ。サイクロン号を犠牲にしてボスとの格差を打ち消す展開もアツい。そういえばマスク越しの流血や、マスクが落ちる演出って、漫画やTV版ではなかったような。これはもしかすると「THE FIRST」のリスペクトなんですかね?
「THE FIRST」は、決して嫌いじゃないんですけど、アクションに外連味が無いんですよね…。リアルだけど地味です。ファイティングポーズをとったり感情が高ぶると、瞳が光る演出があったり、いいところも色々あるんですが。あと、音楽とかもね。やっぱ戦闘でレッツゴーライダーキックのテーマが流れると、それだけで燃えちゃうのよ。「THE FIRST」はこういうところのリスペクトがやっぱり足りなかったかなぁという感じ。OPはそのまま使ってたけどね。

・一文字隼人
「シン」にしても「THE FIRST」にしても、どうしてこんなキザ野郎になってしまうんでしょうか?一文字隼人。設定というか経歴についてあまりちゃんと説明しないのは両作品とも同じ。まぁ、これは急遽撮影事故でリタイアした1号の代打で登場した初代にしても同じかもしれんけど。
それでも、2号キャラは基本的においしいところを持っていくのでやっぱかっこいい。特に「シン」の台詞「お見せしよう」「変身」「ショッカーの敵 人類の味方」とかもう最高ですよ。そして原作漫画同様、本郷の意思を次いで戦う決意をかためるシーンも素晴らしい。
「THE FIRST」シリーズの一文字は、リジェクション(改造人間にされた者は血液交換をしないと苦しみに襲われる)に命を削られながら本郷のピンチに駆けつけるという、原作にはなかったアプローチを一から作り上げてヒーローらしさを演出していて、これまたいい感じでした。

・物語
「シン」は…これは言っちゃあなんだけど、緑川ルリ子を話の中心人物に持って行き過ぎたと思います。彼女の存在によって、どうしても本作の戦いがショッカーVSルリ子になってしまい、主役であるはずの本郷が脇へ追いやられてるように感じました。怪獣が主役のゴジラや、異星人がヒーローのウルトラマンなら、あくの強いヒロインがいても作劇上問題なかったのでしょうけど、本作の場合は別です。本郷猛という人間がいて、彼が改造された悲しみや組織の反逆者という立場を背負いながらもヒーローとして戦っていく姿を見たかった。いや、本作も一応そういう筋書きにはなってると思うんですけど、いかんせんルリ子に尺が省かれ過ぎ…。下手すると、本作におけるショッカーの設定絡みもこのルリ子によるところが大きいような。ルリ子のキャラ造形自体は良いし、浜辺さんの演技の素晴らしいのですが…。やはり本郷をもっと話の中心へ据えるべきだった、というのが感想かな。
実は「THE FIRST」もヒロインで損をしてる作品だと思っていて、あの緑川あすかというキャラをもっと魅力的に描いていれば相当名作になっていたと思います。助けられても逆恨みしたり、変に話をこじらせたり、本郷は彼女のどこに惹かれたのやら…。メロドラマみたいなものにも無駄に尺を使うし。続編であすかが出てこなかったことで、本郷が見事にヒーローをやっていたので、余計にそう感じてしまいました。

ネットのレビューもちらほら見たのですが「シン」は賛否両論気味ですね…。
個人的には続編が出来たらまた評価変わりそう。本作の設定を踏襲したら、原作漫画の最終回みたいな話にはならない気もしますが…どうだろう? というわけで第2号ライダーの続編を作ってくれ~!

狐村滞在記

よくこのブログで紹介している、ひつじ書房さんの「中国現代文学」シリーズの短編作品。
僻地の診療所を舞台としたホラー小説。
感想を書くのにネタバレが避けられないので、先に読んでおきたい方はバックしてください。

 

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感想(0件)

ものがたり
李小琳の現代ホラー小説。二万元の報酬につられて、人里離れた狐村の診療所へやってきた若き女医・小杜。ところが、その診療所は薬の処方といい治療の仕方といい、小杜がつとめていた病院とはどこか違っていた。慣れない田舎暮らしと、診療所をとりまく癖の強い人物達。小杜の違和感は次第に大きくなり、やがて診療所の恐るべき実態を目にする…。

以下、ネタバレ感想

 

 

 

 

 

 

 

 

診療所の裏では若い肉体を解剖して臓器売買らしきものが行われていた…というオチ。一応、田舎暮らしに疲弊して疑心暗鬼になった主人公の妄想、という可能性もあるけど。
人肉とか臓器提供とか、現代でもこういう話にリアリティを出せるのは凄い。まあ、実際それらが中国社会で本当に横行しているかは別として…。
中国の田舎って、日本と比較してもホラーな雰囲気を作れる未開の場所が沢山ある気がする。都市部を離れたら滅茶苦茶交通の不便なところはまだ多いし。ちなみに、本編の舞台になっている狐村は架空の村だそうな。
窮地に陥っても金への執着は捨てきれない小杜(こういう逞しいところ好き)、三輪タクシーとの値切り交渉、都会と田舎の落差、こういうあたりの描写も今時の中国小説ならでは。

以前紹介した「明光書店奮闘記」も含め、この中国現代文学21巻は良作揃いなのでとてもお勧め。

上海灘 1980年周潤發版

1908年制作。TVBの連続ドラマ。全25話。中華民国期の上海を舞台に、黒社会の闘争を描く。
周潤發(チョウ・ユンファ)という大スターの出世作。本作がなければ後の香港ノワールも無かったのではなかろうか。YouTubeで全話が配信されていたので今回視聴。北京語だったので音声はオリジナルじゃないかも。以前、2006年の新上海灘を見ていたので、リメイクもとである本作もずっと見たいと思っていた。
で、結果は大満足。歴史に残る名作だと思う。黒社会の生き残りをかけた争いや、男達の友情、そこに関わってくる女性達、どれも濃厚で見ごたえがあった。葉麗儀が歌う主題歌も素晴らしい。

ボリュームのある新版(全四十話ほど)を先に見ていたせいもあるんだろうけど、物語の展開が滅茶苦茶早い。文強はあっという間にのしあがったかと思えば事件に巻き込まれてやくざを引退、それから家族を得るも平穏は続かず、復讐ため上海に舞い戻り…と展開が忙しい。ラストも怒濤の展開続きで凄い終わり方。脇役はその回に出てきたかと思ったらどんどん死ぬ。特に幇の部下キャラとかはみんな似たような見た目と名前なのでなかなか記憶に残らない。アクションはテレビスケールなうえに時代も古めなのであまり見ごたえはないけど(ホアッとかハイッ、とか叫びながらカンフーやってるのが微笑ましい)、容赦なく人が死ぬのでなかなか緊張感がある。

撮影はセットだけでなくオープンも多め。そのせいか画質の差が激しい。祖界が舞台なので敵役として日本人も出てくる。セットとかはそれなりに日本っぽさが再現されてる…と思う。しかし「味の素」とか「山口香子(李淑蘭)」って…ほとんど実名だけど出しちゃっていいの? 今の時代でやったら間違いなく訴えられそうだ。
ちなみに続集があるんだとか。周潤發も趙雅芝もいなくなったのに?と思うんだけど気になるので、いずれ見てみたい。

以下キャスト
許文強/周潤發
主人公。かつて北京で学生運動をしていたが、恋人の死と入獄で挫折。その後上海にわたり黒社会でのしあがっていく。知力武力も相当なもの。無駄な血は流したがらない主義だが、弟分である丁力の暴走や、仕えている馮敬堯の悪巧みに巻き込まれ、黒社会の深みにはまっていく。あと、女性絡みは結構心の弱さが出る。
演じる周潤發がとにかくイケメン。長い手足と背の高さでスーツがよく似合いアクションも映える。もう帽子を被りタバコをふかしてるだけで絵になる。顔立ちもまさにインテリヤクザといった感じ。リメイク版の黄暁明が演じる許文強も素晴らしかったけど、それもやっぱりこの周潤發版があってこそだったんだなぁと思う。

丁力/呂良偉
もと貧民街の梨売り。根は単純だが誠実で恩義に厚い。許文強の手引きで黒社会に入り、以後は兄弟としてのしあがっていく。最初は上流階級や裏社会のルールに不馴れだったり、猪突猛進気味な姿勢が災いしてトラブルを起こすこともあったが、文強と別れて自立してからは武力だけでなく知略も駆使する一流のやくざに成長。自分を引き立ててくれた馮敬堯には恩を抱くものの、次第に文強と同じく彼のやり方に疑問を抱いていく。家庭では自分が嫌悪した父親と同じくDV気質な面があり、女関係も文強に比べ荒れ気味。母親には頭があがらない。

馮敬堯/劉丹
表の顔は上海の名士。貧乏からのし上がったため彼を純粋に慕う者も多い。が、裏では黒社会にもコネクトを持ち様々な陰謀をめぐらす。娘や客達の前で見せる紳士的な穏やかさもあくまで作り物、実際は陰湿で怒りっぽく、歯向かう部下や競争相手は徹底的に潰す。また利権のためなら敵国である日本人と組むことも厭わない。そんな諸々が災いして、許文強の離反、そして報復の対象に。とはいえ、娘に対する愛情は本物。演じる劉丹の演技がとにかく素晴らしい。

馮程程/趙雅芝
馮敬堯の一人娘。文強と恋に落ちるが、黒社会の争いが二人を引き離していく。演じるは往年の名優、趙雅芝さん。この人はほんと昔から顔が変わらないな。
世間知らずのお嬢様が父の悪事や社会の変化を通し、一人の女性として自立していく様が良かった。終盤ではひたすら戦うばかりの男達にはない心の強さを見せてくれた。

方艷芸(方艷雲)/林建明
上海社交界の花。許文強の学友でもあり、ことあるごとに手を貸す。戦いの中で親しい人達を失っていった文強にとって、数少ない心の拠り所だったが…。
新上海灘ではメインヒロインの一人だったが、本作ではちょっと出番は少なめ。ボリューム盛った髪型と、サテンつやつやなチャイナドレスが時代を感じさせる。最近のドラマ、こういうのあまり着なくなったよね?

蘇旺娣/景黛音
香港へ逃れた許文強が出会った女性。その清貧な生き方が荒んでいた文強の心を癒やし、やがて深い仲で結ばれる。しかし…。
演じる景黛音さんは色んな武侠ドラマのサブヒロインで有名。まあ要するに当て馬ばかりなんですが。

山口香子(李淑蘭)/歐陽珮珊
日本軍の女スパイ。馮敬堯と結託して上海における日本の利権拡大を狙う。武術に優れるほか、変装の名人らしいが身につけている腕輪のせいで結構正体バレバレ。
元ネタは言わずもがな。80年代ならご本人も存命中でまだまだお元気だった頃だけど、クレームにならなかったんだろうか。

陳翰林/湯鎮業
愛国心溢れる青年。程程の学友。混乱を極める上海の中で刑事になり、若干向こう見ずながらも悪事の摘発に動く。文強には程程を挟んで対抗心を抱いていたが、次第に心を許す中に。演じる湯鎮業さんは古装だとインテリ文人役が多め。本作も時代がシフトしただけでそのまんまのイメージ。

劉明/林文偉
精武門の高弟。掌門の死後は弟子達を率いる。文強とは一時敵対したが、日本人撃退をきっかけに協力する。精武門は銃がものを言う時代にカンフーを使い、また日本人の策略にあっさり引っ掛かってやられていくので何だかみんなお間抜け。暇な時はやたらトランプとかで遊んでるのも呑気な感じ。

聶仁王/黄新
上海の名士。馮敬堯とは敵対している。文強が馮敬堯への復讐をする際は手を結んだ。馮敬堯よりまともかもと思われたが、闘争を勝ち抜くのに手段を選ばぬ点では似たり寄ったり。

長貴/廖啟智
貧民街の青年。文強と丁力を慕っている。丁力のつてで部下になり、終盤はすっかり馴染んでいた。

日本人の創作した中国ものに見える「本場中国テイストの脱臭」について

なんか論文くさい書き出しになってしまいましたが。
きっかけは先日のツイートです。

※追記
記事のきっかけになったツイートなのですが、私が引用元様のツイートの意図とは違う方向まで話を拡大してしまい、そのことでご指摘を受けたので取下げさせていただきました(引用元様には直接謝罪のうえ、ツイートの取消しでご了承いただいてます)。私のツイート趣旨は、この下の文章の通りなので、そのまま読み進めていただければ問題無いかと思われます。

長く中国大陸のコンテンツ(ドラマ・映画・小説)に触れていると、日本人作家の手がけた中国の歴史ものには、本場中国のテイストが抜け落ちているな、と感じることがあります。
ツイートでも書きましたが、和製麻婆豆腐を食べてるような感覚。どうやら同じことを感じるもしくは興味のある方々もいるのか反応が多かったので、ちょっと書いてみることにしました。

……んだけど、いざやってみたらちょっとでは到底済まなくなりました。参考にしなきゃいけない資料がいっぱいあるし、それなりに古典から現代まで広く中国コンテンツに触れてきた私でもカバー出来てない領域があるし、というか日本と中国の中国歴史小説を比較するなら、もっと日本人作家の作品も読んでおかなきゃだし…とやることが多すぎました。もはやこのテーマは論文の域です。なので無理!今回はごめんなさい!

…というのもあんまりなので、以下まとまりきっていない話をつらつらと並べてみます。

一応、最初に大前提を伝えておくのですが、今回の話は日本人の書く中国ものがダメだという話ではないし、エンタメとして大陸に劣るということでもありません。大陸テイストが濃いか薄いかは、作品の面白さにまったく関係ないと思っています。
基本的に古代から現代まで小説もドラマも(もちろん日本の中華もの)もそれなりに触れてはいるのですが、さすがに人間一人ではカバーしきれないコンテンツ量なので、何かあればご教示ください。

そもそも、本場中国のテイストって何よ?って言われると、なかなか言語化は難しいんですが「大陸作品には当たり前にあるけれど日本の中華作品には無い(もしくはかなり少ない)要素」といったところでしょうか。
こんな言い方だと具体性がないので、設定面、描写面、思想面に分けて、これまた私個人の主観も多分に入っていることは否めないですが、ちょっと例をあげてみましょう。

設定面
・キャラの名前。日本人作家の作品では兄弟や家族で輩行字をあまり使わない。さらに排行での呼び合いも少ない。二字姓が少ない。時代性を意識した名前付けをしていない(例えば1950年代以降では男性に軍の字を入れるのが流行った)。などなど。
・地名。時代に対する間格差だと思うのだけど、歴史ものを読んでいると呼称が日中で違う。開封→東京、卞梁 南京→金陵 占領期の北京→北平。外国人作家が日本の歴史小説を書いたら昭和時代が舞台なのに東京を江戸、と書いてる感じ。
・銭荘、幇間、車夫、鏢師、講釈師、代筆屋、胥吏、質屋、三姑六婆など、大陸ならよく出てくる庶民職業の幾つかが抜け落ちる。
・紅娘→恋のキューピット 藩安→モテ男 など、人物に由来する喩え。「お前、そんなご面相で藩安のつもりか?」とか。日本でも西施あたりなら使う人がいるけど、大陸ものに触れているともっと色んな例が出てくる。
・大家庭。歴史作品における家族のスケール感が日本人と中国人で大分違うと思う。大陸は四世堂々という言葉が示すように、一つの家に老人からひ孫まで、また夫婦が二つ三つ同居しているぐらいのスケールがある。
・科挙関連。そして官途というものについての考え方。
・義理の親子・兄弟関係。気が合ったら「私達姉妹になりましょうよ。あなたはおいくつ? あら、じゃあ私が妹ね!」なやり取り。師弟関係も同様。

描写面(ぱっと思いつくものばかりで申し訳ないですが…)
・声のでかい喧嘩。そして周囲を巻き込むし、周りの人も口を出す。
・悪事を自白したキャラが、許してくれと喚きながら自分で自分の頬をビンタする。
・厳格な父親が子供に与える罰が庭で正座、書の暗誦、などなど。また女性に用いられる家法の罰。
・宴会や食事における席次のやり取り。上座を示して「请」と譲り合う。また宴会後の見送り。
・お祝いがあると近所の人間や乞食が沢山押し寄せてきて、主人が祝儀を配る。ちなみにこういうので集まってくる取り巻きは、主人が落ち目になった途端見捨てる。
・上記と関連するけど、面子第一なので祝儀には多少無理をする。友達付き合いなら懐が苦しくても外身だけは全力で取り繕う。金が無いのに奢ろうとするとか。
・これまた面子絡みですが、身なりが悪いと途端に相手を見下す。だから外の印象が凄く大事。
・値切り交渉。
・親の葬式をする金が無くて身売りしている子供や女性。
・いろんな場面で賄賂がものを言う。案外善人側も使う。
・初対面の者同士が同郷だったことを知って喜ぶ(広い中国では同郷であることの意味合いは大きい)。
・「この恩は来世で牛馬になって返します」「君子の一言、金鉄の如し」などなどお決まりのフレーズ。
・冤罪の人が処刑される時の「六月雪」など、小説や戯曲由来の描写。
・その他、武侠や仙侠ものや歴史ものにおいて、日本人の作品は荒唐無稽寄りな描写がかなり削減される。これは別途後述します。

これらの設定・描写については細かなものの積み重ねが増えるほど中華っぽさが抜け、和風中華に寄っていくイメージです。他にも沢山あると思うんですけど、長くなるからこんなところで。

・思想的な面
これは具体例を書くのが非常に難しいと感じたので、ざっくり書かせていただきます。
そもそも日本人の手がける中国小説の大半は「日本人が日本の読者向けに創作しているもの」です。また「自国を舞台にして創作するのと、海外を舞台にして創作する」のではまったく異なってきます。
それゆえ、作品のテーマや登場人物の思想が、日本人的であることが殆どだと思います。大陸コンテンツとは思想面で乖離が生じるのは当然でしょう。では、創作上で生じる日中の思想差は何か…と色々考えたのですが、正直内容が深すぎて話がまとまらないので、あくまで私が個人的に感じる例をなるべく簡潔にお伝えします。

・「忠」の概念差
特に歴史ものを読んだり見たりして一番感じます。日本に比べ、中国では忠の意味合いが非常に重いと思います。岳飛、史可法など中国で讃えられる英雄を見ていると、傾向的に愚直な忠義(主君が暗愚だろうと、朝廷が奸臣まみれでもひたすら愚直に尽くす)の方が中国人的な嗜好に合っている気が。また、忠と義なら常に忠の方が重くとられます。忠が強くなれば民に負荷がかかり、義が強くなれば法を犯し国を乱す。ある程度バランスは取るけれど、取るなら忠というのが中国。ゆえに忠義の士は大体自己犠牲的に死んでいく。これの一番良い例が水滸伝。ただ、日本で水滸伝の感想を見ていると、朝廷に使い捨てられ、しかも仲間達を道連れにした宋江はバカだと言う意見が多いです。これは実に日本人的な感想だと思います。別に中国人も豪傑達の中で宋江が好きという人はそれほど多くないだろうけど、忠をまっとうするという意味で梁山泊が朝廷のために戦う物語は支持されていると感じるので。また、忠を重く見ているからこそ、反乱者が朝廷に帰順するのは真の忠なのか、とかいう議論も古くから頻繁に出てきます。
朝廷の興亡を描く演義小説では忠が大きなテーマになりますが、他にも才子佳人の名作古典「桃花扇」でも主人公カップルが恋の成就より国への忠義を選んだり、史実の戦争が登場する武侠小説(武侠小説の大家・金庸の作品など)などでも大抵主人公は忠の士に覚醒します。
一方、日本人ではこの手の大陸作品にあるような濃い忠を重視している作品は少ないのではないでしょうか。むしろ吉川版の「三国志」で奸雄の曹操(天子をないがしろにする曹操は不忠の権化)が魅力的に描かれたり、北方水滸伝のように完全な反乱者としての梁山泊が描かれたり、強力な個人や集団が国や権力に挑む、という物語の方が好まれるイメージです。

・隠士がいない。
日本の小説にはあまり隠士が出てきません。隠士とは何か。中国武侠小説の大家・金庸先生が「秘曲 笑傲江湖」のあとがきで書いています。

先程の忠の話にも繋がるのだけど、例えば王朝が滅亡した時、そこに殉じるか、新しい王朝に従うかの二択ではなく、この隠士という生き方がもう一つの選択肢になります。世俗を離れ、新しい国家に関わらず暮らすという生き方。これは歴史上にもそういう生き方をした例が多数存在するばかりでなく、創作でもこの生き方が一つの理想として描かれます。
これまたわかりやすい例なので水滸伝を出すと、梁山泊崩壊後、朝廷に仕えずもとの暮らし(政治には関わらない)を選んだ柴進や、世俗を離れた戴宗など。
ラストで再会を果たしながらも、自分達の愛より国への忠を優先した「桃花扇」の主人公カップルも、この隠士に相当するでしょう。
また武侠小説では、主人公が武林を引退したり、争いを避けて塞外へ旅立ったりというラストが多いです。隠士の後書きを書いた金庸先生の作品でも「笑傲江湖」の冷狐冲や「神鵰侠呂」の楊過、「倚天屠龍記」の張無忌をはじめ、隠士としての生き方を選択する主人公が出てきます。
しかし、優れた人物ほど世俗が放っておかず、結局隠士をまっとう出来ぬまま悲劇的な末路を迎えることも。時代はずれるが、上海租界の黒社会を舞台にした歴史的名作ドラマ「上海灘」では、主人公の許文強が一度尽きぬ争いに疲れて黒社会を引退するが、結局引きずり戻されてしまう物語が展開します。隠士もまた楽な生き方ではないのです。
…と語ると切りが無くなるのでやめますが、日本の中国小説ではあまり隠士的な生き方をする人物を描いた作品を見ないなぁ、と感じます。あるよ!という方がいたら教えてください。勉強不足で申し訳ないです。

はい、長くなって既に全然まとまりを無くしてしまった感じがしますが、続けます。

ようやく本題ですが、こういう大陸中国のテイストが、日本の中国作品で抜け落ちる要因はなんでしょうか。
思想面については、先程書いたとおり「日本人が日本の読者向けに作っている」という結論で大体片づく…ハズです。自信ない。
では、設定・描写面についてはどうでしょうか。
やはり考えられるのは日本人作家がどんな資料を用いて中国歴史ものを作っているか、だと思います。ざっくり下記にまとめてみます。

①中国の歴史書(翻訳含む)、またはそれに類する研究書やムック本
②中国の経書
③文化史・随筆などの記録集
④中国の小説(古典も現代も含む)
⑤中国のドラマ・映画
⑥日本人の中国作品(映像作品、漫画なども含む)。
このうち、日本人の参考資料として圧倒的に多いのは①②⑥ではないでしょうか(拘りのある方は③に行く)。中国ものを書く日本人作家が個々にどんな資料を作品の参考にしているか調べるのははっきり言って不可能ですが、それなりに根拠を並べていこうと思います。

まず、中国テイストを最も濃く保持しているのはいうまでもなく大陸の作品群である④と⑤です。史書・経書には創作において重要な描写(台詞、情景、心の動き)が存在しません。
理屈は単純です。史書をもとに中国人を書くのと、古装ドラマをもとに中国人を書く、どちらが現実の中国人に近くなるか。後者に決まっています。描写があるからです。その描写こそが中国テイストの正体なので、④と⑤を摂取しない層からは自然とそのテイストが抜け落ちます。
いやいや日本人だって④や⑤は見るでしょ!という反論が当然あるのでお答えしますが、多くの日本人作家が見るのは①②⑥に付随する、それも好きな時代に近い④⑤になるはずです。例えば三国志が好きなら、見るのは比較的後漢~晋周辺の小説・ドラマになります。その時代周辺だけ、三国志のジャンルだけ、しか書かないというのならそれで問題無いと思いますが、もっと広く中国ものを書く、のであればさらに時代やジャンルの幅を広げる必要があります。
私の観測内の話で申し訳ないですが、④⑤については、中国歴史好きの日本人ですらあまり触れていない、しかし大陸ではメジャーなジャンルが幾つか存在します。
一つは才子佳人。古くから存在する人気ジャンルですが、日本人でこのジャンルの小説・漫画などを作っているのはかなり少数です。
二つが、最近流入が増えてきた武侠や神仙ジャンルです。
三つは古典名作。特に紅楼夢は中国古典小説の代表作ですが、中国好きを名乗る日本人でも読んでない人が多いです。あとは西廂記とか戯曲関連がよく抜けます。
他にも多数あるのですが、④⑤の摂取範囲と摂取量が日本人作家の中国もの創作に中華テイストの濃厚差を与えている要因の一つであると感じます。
基本的に中国の歴史ものは、始まりから現代まで地続きで発展を遂げてきた作品も多数存在する(たとえば白蛇伝や西廂記は唐代伝奇を元ネタに宋元から戯曲→明清でさらに長編の作品に発展、そこから現代では映像化)ので、それこそ武侠や神仙作品に出てくる用語やアイテムのソースをあたればほぼ古典まで行き着きます(武侠でよく出てくる死体を溶かす薬とかも既に唐代伝奇(聶隠娘)で登場してる)。それほどまでに歴史を積み重ねてきたジャンルなので、人が空を飛んだりビームを出したりしても中国からすれば当たり前なのですが、初めて触れる日本人には???なのです。
ちなみに日本で武侠や神仙が流行らなかったのは、ちょうど大陸でそのジャンルが急激に発展した中華民国の時代に、作品が日本へあまり入って来なかったのが要因ではないかと思っています(このあたりソースが無くて憶測です。とはいえ古い翻訳あたっても出てこないので読んでいた日本人が少なかったはず)。

さて、さらに問題になるのが⑥です。
実のところ日本は、中国本土から作品を供給しなくても十分なほどの豊富な中国コンテンツが既に市場に出回っている状況です。三国志や水滸伝、また秦・漢・唐あたりはそれだけで一つのジャンルを確立できるほど日本人作家の作品が豊富です(ちなみに日本でメジャーな時代は、庶民生活の資料などが乏しいので創作上想像が多くても幾らか誤魔化しが利きやすく、これまた中国テイストの抜ける要因の一つであると思います)。架空中華ジャンルも隆盛です。後宮ものやファンタジーなら日本人作家のものを読むだけでも存分に楽しめます。
で、ここで創作上の構造話になるのですが、既に日本において吉川・横山版の「三国志」や北方水滸伝、酒見賢一「後宮小説」、宮城谷昌光の作品群、ドラマなら堺正章版の「西遊記」などなど、後続の創作者にとって「お手本」とも呼ぶべき名作が沢山存在しています。しかし、⑥はあくまでも日本人の手による作品ですので、それらをもとに中国ものを書くと、大陸テイストの脱臭が強まります。そもそも上記であげた名作にしても、既に幾らか脱臭されているのです。

日本人作家には(あくまで私の知っている例として)、歴史小説を書く際に史実のテイストを重視するためか、とにかく中国ものを書くと荒唐無稽な要素を排除する傾向が見られます。

極わかりやすい例をあげます。
三国志における諸葛亮の風呼びをご存じでしょうか。
吉川三国志は「演義」を元にしていますが、原著を物語面・思想面で相当改編していることで有名です。三国志演義屈指の名場面である赤壁戦、諸葛亮は東南の風を呼んで曹操軍を火攻めにします。演義では本当にまじないで呼んだのか、それともあらかじめ風を予測していたのかぼかされています。演義の諸葛亮は諸々の戦で呪術的な力を発揮するので、どっちとも取れる描写なのですが、吉川版は諸葛亮があらかじめ風を予測していた、ということにしました。で、面白いのが後に三国志を書いた日本人作家(横山光輝版、柴田錬三郎版、などなど)も殆どがこの例に倣っていることです。まあ、今時は大陸作品も諸葛亮の呪術描写は削減されるのですが、日本人の場合は特にその気が強いイメージです。

また、やたらと説明臭くなるのももう一つの特徴です。下記は北方謙三の水滸伝インタビューですが、原作の問題点(梁山泊の不透明な経済事情やら物語の辻褄やら)や改編理由について述べており、なかなか興味深いです。北方先生の水滸伝は大変面白いのですが、思想・設定・描写全てにおいて中華テイストをことごとく脱臭しており、和風中華麻婆作品の最もたる例ではないでしょうか。
https://books.rakuten.co.jp/event/book/interview/kitakata_k/
私は、原作水滸伝は梁山泊の経済事情なんか説明しなくても特に問題無いし、また物語も多少の矛盾や倫理観で引っかかる面はあるにせよ、大陸ではほぼ原作まんまの流れで二回もドラマ化しているのだから大丈夫だと思うのですが…。北方先生の水滸伝は、カレー屋(水滸伝というタイトルの本)で滅茶苦茶うまいラーメン(中身が全然違うけど面白い物語)を食べているような感覚です。

吉川英治と北方謙三のたった二例でざっくり言い切るのは乱暴極まりないと思うのですが、なるべく荒唐無稽さを打ち消し、かつ史実に沿う説明を尽くさなければいけない、という点は、作家がそうしなければというスタンスはもとより、日本人読者側にも要因があるような気がします(いわゆる史実厨の存在とか)。この点、大陸ドラマはあっけらかんとしているというか、歴史ものを扱っても物語は物語と割り切っているように感じます。カンフーで日本兵を真っ二つにしちゃう抗日ドラマとかね。流石にやり過ぎたら当局からお咎めが入るようですけど。

で、話を戻すと、この説明出来ないところ、あるいはしにくいところが日本の中華創作上の大きな障害になっているように思います。
代表例は纏足です。
日本の中華コンテンツ、とりわけ女性ジャンルで架空中華が流行る要因の大きな理由だと思うのですが、史実を舞台にすると女性が主役の作品は書きにくい、庶民だと女性は(纏足以外にも封建社会の制約があるから)活躍させづらい、というぼやきをネット上でちらほら見かけます。拙作の「詩剣女侠」の感想にも、実在の中国では女性が出せない云々というワードがよく出てきました。だから架空中華になるし、女性を出しやすい後宮ものばかりになる、と。
はっきり言いますが、それは日本人が勝手に思い込んでる幻想です。
大陸の小説や古装ものに触れればわかります。
一部の旧習批判を描いた作品は例外として、纏足が創作の足かせになっている作品などほぼありません。生真面目に説明することもしません。なんなら古典の時代からそうです。「児女英雄伝」の十三妹は三寸しか無い足で元気に日本刀を振り回し悪党をかっさばいています。
民間女子を主人公にしたいなら「才子佳人」ジャンルで作品を書けば解決です。一見、ヒロインは深窓の令嬢ばかりに思いがちですが、実際は貧しい身分から引き上げてもらうシンデレラパターン、学問や商売などの能力はあるけれど認めてもらえない女子パターン、平凡な生まれだけどそのために金持ち才子の心を掴むパターンなど、あらゆる恋愛ものもしくは働く女子ものなどを書く土台が揃った素晴らしいジャンルです。
また封建社会の制約云々は、むしろ物語を面白くするエッセンスにしかなりません。最近日本に入ってきた「夢華録」がいい例でしょう。
もし女性を主役にして、後宮以外の中国ものを書きたいのであれば、皆さん今すぐ大陸のコンテンツに触れまくるのをオススメします。

ちなみに、繰り返しになりますけど私は和風中華コンテンツを批判するつもりは毛頭ないです。それどころか、和風中華には中国では作れない魅力のある独自要素もあります。せっかくなので紹介します。
それは宦官キャラです。
大陸創作では基本的にキモくて人間の道を外れた存在として描かれる宦官(まあ武侠ジャンルでは去勢しないと会得できない武術とかあって最強級の強さを持ってたりするんですが、まあ基本悪役です)。
しかし日本の中華創作では、男女の姓を超越した美しいビジュアルを持ち、かつ色んなエロネタにも利用可能な肉体を持った滅茶苦茶便利なキャラクターだったりします。

切ってもこんな美しく成長するハズがない笑 でもそれがいい!

そんなわけなので、日本は日本なりに中華コンテンツを発展させて(望めるなら、大陸コンテンツのいいところをどんどん吸収していって)くれればいいなぁと思っています。

結局、全然まとまっておらず大変申し訳ないのですが、今のところこんな感じでしか書けなかったので、ありのまま放出します。お目汚し失礼します…。

八仙チュートリアル

サークル「四十二蝶」の同人誌漫画。
中国の有名な仙人集団である八仙の一人・何仙姑が主人公。昇仙して間も無い何仙姑が仲間入りするまでのお話。

ずっと前に予告編の小冊子を買って以来、続きを楽しみにしていた作品。先日のコミティアで頒布されたので即座にゲットしました。表紙が滅茶苦茶美しい。文字フォントも中華テイスト溢れてて凄く好み。
内容は80ページとなかなかのボリューム。ギャグありシリアスありで物語のテンポもよくとても楽しい。何より八仙のキャラがそれぞれとても個性的。これまで買った四十二蝶さんの作品で八仙がそろい踏みになったのは初めて見た気がする。
特に戦闘シーンの描写は白眉。剣の構えとか、技名とか、ちゃんと本場の中国神魔ジャンルテイストになっていて素晴らしい。
同サークルで刊行されている八仙シリーズとも内容がリンクているので、そちらを読んでいればより楽しめる。何仙姑主役の物語も続編が沢山出てくれたら嬉しい。

何仙姑
可愛くてかっこいい本作のヒロイン。「あそこ(変な)男ばっかだよ!」な八仙へ仲間入りする。なんか相撲部とか鉄道研究会に入ってきた女の子みたいなノリ。過去は結構シリアス。
錬成した剣を構えるコマが最高。

呂洞賓
八仙の一人。新しい愛人…じゃなくて八仙として何仙姑を案内。イケメンぶりが災いして女仙を導くのに何度か失敗していたことが語られる。短いながら戦闘シーンでも見せ場あり。

漢鍾離
八仙の一人。呂洞賓の師匠。顔がコワイ人。何仙姑の素質を疑問視し、試練を課す。

韓湘子
同サークルの別漫画「太歳公韓湘子全伝」の主役。凄いとこで寝てた。安定のギャグキャラでした。末席。ちいかわ。

藍采和・張果・李鉄拐・曹国舅
その他八仙達。少ない出番ながらどれもキャラがたっている。藍采和は相変わらず可愛い。

下記にリンク貼っておきます。サンプルも見れるので是非どうぞ!
Booth作品ページ
https://42tyou.booth.pm/items/4564734

散りゆく花

サイレント映画の古典的名作。監督はグリフィス。主演はリリアン・ギッシュ。
中国映画じゃないんだけど、当時の西洋から見た中国観を知れる作品なので紹介。

ものがたり
仏教を広めるため海外へやってきた中国青年のチェン。しかし厳しい現実の前に夢破れ、スラム街で堕落した暮らしを送る日々。ある日、同じくスラム街に住み、父親から虐待されている少女ルーシーと出会い、チェンは彼女を保護する。ひとときの安らぎは長く続かず、ルーシーを探しにやってきた父親は彼女を痛めつけ、死に至らしめてしまう。それを目にしたチェンは…。

原題は「Broken Blossoms or The Yellow Man and the Girl」。イエローマンという言葉が時代をよく象徴している。
バーセルメス演じるチェンが妙に細目を作っていたり、背を曲げて顔を突き出した姿勢をとっていたり、ビジュアルは当時の西洋人から見た典型的中国人を意識している模様。仏教徒なら僧でないといけないはずだけどそこらへんまでわかっておけというのはまあ無理な話。一方で、その中国人を悪人側では無く善人側として扱っているのが特徴でもある。

往年の名女優であるギッシュがひたすら美しい。サイレントの女性は本当に時代を超える美しさや魅力があって不思議だ。演技も素晴らしく、台詞が無くても彼女の孤独や弱さが痛いほど伝わってくる。自然に笑えなくなってしまい、二本の指で無理矢理唇の端を持ち上げる仕草がとにかく哀れ。後半の中国服に着替えた姿はとてもエキゾチックな雰囲気を放っている。美しい西洋少女とシノワズリ(この時代にはもう死語かな…)の組み合わせはめちゃくちゃ芸術味と美しさを感じさせる一方で、妙にマッチしないグロテスクさがある。なんというか、この時代には許されていない組み合わせというか。うまく言葉になんないんだけど。だからこそ、ただでさえ外国人嫌いなルーシーの父親には、娘のこんな姿はさぞ唾棄すべきものとして見えたのではないか。
とことん救われない物語もとにかく良し。サイレントはやっぱりこれくらいシンプルな筋立てがいい。

パブリックドメインなので動画サイトで気軽に見ることが出来る。お勧め。

1987年版紅楼夢寸劇 宝玉重返大観園

先日見た美好年華研習社の紅楼夢が割と悲惨な出来だったので、お口直しに鑑賞。
紅楼夢の映像作品でも最高傑作と名高い1987年版ドラマの制作後に作られた「紅楼夢文芸晩会」という番組中の寸劇「宝玉重返大観園」。
物語は一応、ドラマ最終回の続編ということになっている。出家した宝玉は(ご丁寧にもドラマ最終回の乞食姿をそのまんま再現)、どういうわけか200年後の現代に到達。生まれ変わった?大観園の金陵十二釵達と次々に再会する。かつての前世と異なり、現代女性らしく活き活き働く彼女らを見て、宝玉は複雑な心境になりながら天に向かい嘆息するのだった。

10分にも満たないミニドラマなんだけれど、紅楼夢パロディとしてはきちんとした作り。賈宝玉はもちろん十二釵達も全員87年版のオリジナルキャスト。
現代女性に生まれ変わった十二釵達の職業がそれぞれ面白い。
迎春は看護師。
元春はパン屋の店員(なんで??笑)
巧姐は楽器の演奏者。
熙鳳は番組監督。
黛玉は女性作家で詩集を発表。
惜春は画家。
宝釵はデザイナーで自作の玩具を制作(どう見てもミッキーマウスですが…笑)
ちゃんと前世の彼女達を踏襲しているものもあれば、何だかよくわからないものも。現代衣装のみなさんがそれぞれ美しい。元春と惜春は大分イメージが変わる。残念ながら出てこなかった探春や湘雲の職業がどうなったのかも気になる。
封建社会で不自由な生き方しか選べなかった彼女達が、自由に職業選択して生きている、と考えればかなりハッピーなお話といえるかもしれない。
やはり一番最後に持ってきた宝玉と宝釵の再開場面がハイライトか。200年待っていたのよ!と涙ながらに訴える宝釵に対して、物凄く嫌そうな顔をして冷たく応じる宝玉。大真面目に演じてるのが逆に笑える。張莉さんはギャグもいけるんだな。

87年版ドラマ好きなら見ておいて損は無い。ネット上に動画があるので気軽に見れる。