金庸考察「神雕剣侠」の古墓派は本当に最強か

【中古】 神雕剣侠(五) めぐり逢い 徳間文庫/金庸【著】,岡崎由美,松田京子【訳】

感想(0件)

「神雕剣侠」に登場する古墓派。開祖の林朝英は、東西南北の四大達人をしのぎ、天下第一の王重陽をも上回る強さを持っていたという。ところが、よくよく物語を読むと、彼女の実力に関する伝聞は人物によって食い違いがあったり、開発した奥義にも欠陥としか思えない箇所があったり、ほんとに最強だったのか疑わしいのである。
そこで今回は、林朝英の真の実力について考察してみたい。

作中、林朝英の半生を最も詳しく語っているのは王重陽の弟子である丘処機と古墓派後継者である小龍女の二人だ。以下、簡単にまとめてみよう。

丘処機
・王重陽と林朝英は若い頃好敵手だった。
・互いに想い合っていたもののすれ違いが続き、最後は仲違いのため、古墓をかけて決闘する。しかし王重陽が遠慮して全力を出さなかったため、なかなか勝負がつかず。そこで、石の上に指で字を彫れるか勝負しようと林朝英が提案。彼女はペテンを用いて王重陽に勝ち、以後は古墓に住んだ。
・林朝英は侍女と共に古墓へこもり、世間へは顔を出さなかった。武芸の全ては侍女に継承された。
・華山論剣の十年以上前に没したため九陰真経争奪戦には不参加。
・林朝英の実力は王重陽と同等、四大高手より上。ただし神出鬼没で女性のため世間には名を知られなかった。

小龍女
・当初、王重陽と林朝英は互角だった。
・その後、王重陽が抗金の義兵をあげて武術を磨く暇が無くなり、林朝英の方が上になった。
・王重陽は金に敗北後、古墓にこもって武術の修練に励む。一方林朝英は二度も大病を患い、王重陽に及ばなくなった。
・林朝英は王重陽と最後に古墓をかけて戦って勝利し(しかし戦いの詳細は知らない)、以後はその中で終生武芸を磨いた。
・古墓に記された全真教の技を研鑽し、これを打ち破る玉女真経を編み出した。
・玉女真経を完成させて間もなく死去。

さて、比較してみるとわかりやすいが、両者の話には大きな認識の違いが存在している。
それは、古墓をめぐる王重陽と林朝英の戦いについてだ。
丘処機は林朝英の勝利がペテンだと聞かされている。その前の勝負についても王重陽が手加減気味だったと口にしており、二人の技量は互角と捉えているように思える。
しかし小龍女(と彼女の話を聞いた楊過)はこのペテンについては知らず、ただ勝負に勝った認識なので、二人の中では林朝英>王重陽だろう。ここの食い違いは、読者もうっかりすると見落としてしまいがちである。
とはいえ、林朝英は全真教武功を完封出来る玉女真経を作ったのだから、やはり最後は王重陽より上だったのでは?と思われるかもしれない。後に古墓を訪れた王重陽は、遺された玉女真経の奥義を見て三年ほど研究したものの、ついに自身で打ち破ることが出来なかった。しかし、この時点で玉女真経はあくまで理論上のものであり、小龍女師弟が江湖で披露するまで実戦で使われたことはなかった。この点は、両者の力関係を語るうえで考慮すべき重要な部分であると思う。

ここで、ちょっと金庸先生の別作品「笑傲江湖」の例を引用しよう。作中では、五嶽剣派の罠で華山の洞窟に閉じ込められた魔教十長老が、せめてもの報復として五嶽剣派の技をことごとく打ち破る技(以降、便宜上「対五嶽派剣術」と記す)を壁に書き残していた。作中では二流クラスの岳霊珊がその技を用い、格上の五嶽剣派長老を数人破っている。しかし、勝てたのはあくまで技だけであり、同じく長老格の左冷禅には経験と内力で圧倒されている。また、岳霊珊が後に青城派の門人と戦うことになった際も、この「対五嶽派剣術」では相手をなかなか破れず苦戦した。というのも「対五嶽派剣術」はあくまでアンチ五嶽剣派の技であり、それと関係ない青城派に使っても効果が薄かったからである。
そのほか、冷狐冲がうっかりこの技を師娘との練習試合で使った際も「優れた内力があれば、技の優劣も簡単に覆せる」ことを諭されている。
要するに、玉女真経が論理上で全真教武功を破ったとしても、実際の戦いで勝てるかはまた別の話ということだ。
そもそもこの玉女真経は、修行法と運用にいくつか欠陥を抱えている。
まず、一人では内功修行が出来ない。作中では二人で結跏趺坐しながら手を合わせ、内力を運用する必要があった。
さらに外功習得にはよりによって敵である全真教の武功を一通り学ぶ必要がある。古墓の壁面には王重陽の記した全真教武功があったが、肝心の口訣が欠けていた。そのため小龍女師弟も、楊過が短期間いた全真教で口訣を覚えていなかったらそこで詰みだった。まあ林朝英は王重陽と長い付き合いだから口訣も知ってたかもしれないが、いずれにしても倒したい相手の武術を学ぶ→そのうえで相手を倒せる武術を学ぶ、と二段階の修行をしなければならないわけで、手間は二倍近い。
で、そんだけ苦労しただけあって、玉女真経は確かに全真教の門人相手なら絶大な威力を発揮する。格上の相手であっても、全ての技を先読みして完封してしまうほどである。しかし他の門派にも通用するかというと、何とも言えない。最初は九陰神経に並ぶ奥義!との触れ込みだったのだが、楊過は中盤以降次々に弾指神通や打狗棒法など新しい武功を習得していき、玉女真経はそれらに活躍を奪われてどんどん影が薄くなっていくのである。この扱いが意図的なものか作劇上の都合かは別として、玉女真経が無類の強さを発揮出来るのは全真教だけで、他の相手には「最強」の二字を冠するほどの威力は見られない。この点、一度習得したら本当に最強な「独狐九剣」や「六脈神剣」といった他作品の奥義と比べ、玉女真経はかなり株を落としているように思う。また、最強の技である「玉女素心剣法」も全真教武術とのコンビネーション技であり、一人では使用出来ない(しかも二人がラブラブ状態でなければいけないという面倒な制約もつくため、作中でもまともに使われたのは数回程度)。そして楊過が片腕を失ってからはとうとう使われなくなってしまった。小龍女は後半、一人で「玉女素心剣法」を使えるようになるが、これは林朝英も想定外の使用法だったと思われるし、速度の代わりに威力が落ちる欠点もあった。
つまりこの玉女真経、林朝英も作ったはいいけど一人では存分に使えず、習得もままならない奥義だったのである。まあメタ的にいえば主役カップル専用武功だから二人で修行する仕様だったんだろうけど、この有様で「私の勝ち!」はちょっとズルいのではないか。それが通るなら、全部を習得するのはほぼ不可能な少林寺の七十二絶技、百年に一度しか修得者が出てこない天龍寺の六脈神剣のように、使えなくても強い奥義を保持しているだけで最強とかいう屁理屈がまかり通ってしまう。
また、王重陽が三年かけても破れなかった玉女真経の作成にかかった期間は、その倍以上である。王重陽がもっと月日を費やして研鑽したら、多少は攻略法も思いついたかもしれない。もとより、自分の武功をメタった武功をさらにメタらなければならないのだから、難易度だって余計に高かったはずだ。
また、私が林朝英が仮に玉女真経を習得したとしても実戦で王重陽を圧倒出来るかわからないと書いたことには、もう一つ根拠がある。
それは古墓派の内功である。この内功は、作中で小龍女が説明しているように喜怒哀楽の感情を捨てて修行する必要がある。もし心を動かしすぎると、内力が乱れて力を発揮できず、ひどい場合には吐血までしてしまう。
で、問題なのは作中で描写されている林朝英の性格が、明らかにこの内功のコンセプトとかみ合ってない点である。彼女は王重陽に何度もアタックをかけ、結婚出来なければ自害すると言い切るほどの情熱的な人物なのである。感情制御を要求する内功の修行にはまったく向いていないので、作中の小龍女のようにしょっちゅうゲホゲホやっていたのではなかろうか。というか、実際そうだったと思しき描写もある。王重陽が病気療養中の林朝英に送った手紙には彼女の内傷のことが触れられており、その治療のため寒玉床をプレゼントしたという。原因ははっきりしないが、この内傷は恐らく古墓派内功の修行で生じたものではないだろうか。王重陽との結婚がかなわず、一生暗い墓で過ごす羽目になった彼女の心は、絶えず傷ついていたに違いないからである。
さらに、古墓派内功は作中人物からも意外と評価が低い。せいぜい風変わりな内功程度なのだ。誤解しやすい部分だと、黄薬師が楊過の内功を高く評価する一幕があるが、それも寒玉床により十年並の修行をした点を言ったのであって、古墓派内功そのものではない。敵味方問わず絶賛される全真教内功とはえらい違いである。
金庸作品においては、内功こそが強さの根源である。天龍八部の段誉、連城訣の狄雲のように、外功がだめだめでも内功さえあれば何とかなってしまう例は少なくない。また笑傲江湖の冷狐冲はしばらく内功が使えず外功だけで戦っていた時期があるが、持久力が無く常にギリギリの戦いを強いられていた。このように、内功に欠点を抱えることは金庸江湖だと圧倒的な不利をもたらすので、林朝英がいかに優れた技を生み出しても、それだけで王重陽に勝つのは難しいのではないか。

おまけで、丘処機が口にした「林朝英は四大達人(東邪西毒南帝北丐)よりも上」についても考察していこう。林朝英は論剣が開催される十年以上前に亡くなっており、この五人が実際に手を交えた機会は一度も無かった。
では、丘処機は何を根拠に林朝英>四大達人と言ったのだろうか。
仮説としては、王重陽自身が弟子達に直接そう述べた可能性が考えられる。王重陽は四大達人と戦っているので、彼らと林朝英の実力差を正確にはかることが出来たはずだ。そして王重陽が玉女真経を自身の力で破れなかったことを理由に、そこから林朝英の方が自身より上だと認めるのも問題ない。
しかし、先述したように玉女真経はあくまで対全真教の奥義である。全真教武術には有効でも、四大達人に通用するかは別の話。また、五絶には相性が存在している。全真教武術は西毒一派の武術と相性が悪く、またその西毒は南帝の一陽指を弱みとしている(詳しくは過去記事の金庸徹底考察 射鵰英雄伝 五絶の優劣について を参照)。王重陽は崋山論剣で相当西毒に苦戦したのか、対抗策として後に南帝から一陽指を伝授してもらっていた。開祖が女性である古墓派武術は作中でも度々「女性門派ゆえ力強さに欠ける」と言及されており、剛の最高峰である降龍十八掌あたりとは普通に相性が悪い気がしなくもない。他にも、四大達人にはそれぞれ弾指神通や降龍十八掌などの奥義があるが、古墓派はそれらしきものってあっただろうか(ちなみに作中で江湖から恐れられた李莫愁の五毒神掌や冰魄銀針は彼女のオリジナルであり、同門ではあるが別系統)。軽功は天下無双だけどそれだけじゃ相手を倒せないし…。
とまあ諸々の描写を踏まえると、実際に戦ってみなければ林朝英>四大達人と簡単に断言はしにくいところもある。
ただし、作中に一つだけそれに該当する事例がある。林朝英の侍女(小龍女の師匠)が欧陽鋒と直接戦っているのだ。この時、侍女は欧陽鋒に点穴したが、相手は経脈逆転の武功を使っていたため点穴が通じず、反撃を食らって破れてしまう。林朝英の侍女は、玉女真経を除く全ての古墓派武芸を習得していたため、実力的には往年の林朝英に匹敵したと考えても良いだろう。ちょっとややこしいが、欧陽鋒が経脈逆転を使っているのでこの出来事は「射鵰」後の時系列であり、デタラメとはいえ欧陽鋒はパワーアップを遂げた状態である。そのレベルの相手と一対一で渡り合えた事実は、四大達人以上の実力を保証するものだと思う。

以上を踏まえて、私個人の意見としては、王重陽=林朝英>四大達人あたりが順当かと思います。