紅楼夢の金陵十二釵考察「林黛玉」の続きです。
その①はこちら。
今回は黛玉の性格について触れていこう。
もう一人のメインである宝釵が円満な淑女というわかりやすい美点を持っているのに対し、黛玉の性格的な魅力はなかなか表面からは見えにくい。日本で出回っているムック本やネットの解説なども、黛玉の人物像をツンデレだの繊細だのと表層的なところに触れるだけで、本質部分まで深掘りしていないことが殆ど。
そのため、紅楼夢を一読しただけだと「黛玉ってなんか性格悪い子だよねー」という感想に行き着いてしまうことも少なくない。
個人的に、黛玉の性格を一言でわかりやすく説明するなら、自身が第二十二回で口にした「我为的是我的心(私は自分の心に正直でいたいの)」に集約されると思う。これは前回でも触れた、彼女の学問に対するスタンスにも通じている。自分の心に正直、というのはつまり、口で言ったことと本音が同じであり、言葉と態度が一致していることを大事にする。
黛玉は建前だけの言葉や虚礼がとにかく嫌いである。だから彼女は、自分が正しいと思ったら、他人に嫌われるとか周囲の空気とか世間の常識とかはお構いなしに、平気でそれを言う。加えて洞察力も並外れているので、賈家で蔓延している表面だけの礼儀やお為ごかしなどもあっさり見抜いてしまう。彼女はそうした嘘が大嫌いなので、自然と賈家の人達を冷めた目で見るようになる。そんな中、容姿才能は自分に匹敵し、一方で自分と違い穏やかで誰とでも上手くつき合える薛宝釵が引っ越してきたことで、一部の理解者を除いて賈家での立場が悪くなっていく。が、それでも自分の生き方を曲げることは決してしない。見た目が病弱の瘦せ型女性ということで誤解されがちだが、その華奢な身体と裏腹に黛玉は意志が強く、反骨精神バリバリの大変ロックな女性なのだ。
こう書くと、現代日本のエンタメでも出てくる「わきまえない女」みたいなカッコよさを感じるかもしれないが、黛玉の場合はもっと極端。常に自分の信条第一に振る舞い、そのうえ物の見方も捻くれているため読んでいるとアレな言動・行動もしばしば見られる。以下にちょっとマイナス面の強い事例を挙げよう。
第七回、上京してきた薛家が賈家のお嬢様達の各部屋にかんざしのプレゼントを届けてくるが、自分の順番が最後だったので黛玉は「ハァ? 残りモンを私のとこへ寄越してきたの? うっざ」と突き返す(こういうのは身分や序列にしたがって渡すのが決まり。他の女性キャラなら内心不満に思いつつも表向きはお礼を言って受け取っていると思う)。
第十九回・二十回 侍女をいじめる乳母をくそババア呼ばわりしたが、そのくせ自分も年下の史湘雲を達者な口でいじめる。
第四十回 賈家のお客様として遊びに来た劉ばあさんを「大食いメスバッタ」呼ばわり。周囲は相手が年長者なので田舎者と思いつつ内心は控えていたが黛玉は遠慮なし。まあある意味ほんとのことではあるんだけど…。
第六十三回 宝玉の誕生日祝いのゲームで負け、飲まされそうになった罰杯を人が見てない時にこっそり捨てる。
第九十六回 庭で泣いていた下女の姿を見て「ふーん、こんな鈍そうな子でも人並みに泣いたりするんだなぁ」とあからさまにひどい感想(なお、知らんぷりせず声をかけてあげるだけ黛玉の方が優しかったりする)。
その他、賈宝玉との喧嘩ではしょっちゅう理不尽に切れたりヒステリーを起こすし、忠義に尽くしてくれる侍女の紫鵑にもちょっとしたことで八つ当たりする。表面上はこうしたマイナス面の描写が目立つので、先述した通り現代で初めて紅楼夢を読んだ人が「黛玉はわがままだから好きになれない」という感想を持つのも別段おかしいことではない。
また、黛玉は他人に対しても自分と同じようなスタンスであることを求める。
第二十回の誕生祝いで、王熙鳳が舞台役者の娘を皆の前に引き出して「誰かさん(黛玉)に似てない?」という。当時の役者は身分が低いので、それに似ているというのはまあ一種の悪趣味なジョークである(お前犯罪者と顔そっくりだなwみたいな)。それを聞いて、無邪気な史湘雲は「あはは、林ねえさまそっくりね!」と大笑いするが、宝玉と宝釵は繊細な黛玉がブチ切れるだろうから…と心の中では笑いつつも表向きは真顔を保つ。
しかし、黛玉はむしろ宝玉の態度にキレる。なんで???と思う方もいるかもしれないが、黛玉の「自分の気持ちに正直」のスタンスに則るなら、悪口を面白いと思って笑う史湘雲は少なくとも気持ちと言葉が一致している。だから、心の中では面白がってるのに表向きでそれをごまかす宝玉(と宝釵)よりはマシということになるのだ。
というように、黛玉は本音を隠して表面を取り繕うことも許そうとしない。しかし宝玉や宝釵の態度は、現代人の我々でも普通に処世術としてやってることである。黛玉のように、みんながみんな自分のありのままの心を晒して正直に生きるというのは理想的ではあるけれども、考え方としてはあまりに極端と言わざるを得ない。まして当時は封建社会。旧中国の家庭における女性は三従四徳を筆頭に、社会のルールをかたく守り、感情を表に出さず慎ましく生きるのが良しとされていた。それを踏まえれば黛玉のストレートな感情表現は危険かつ反逆的であり、周囲の人たちが煙たがるのも無理はない。
反対に黛玉からすると、大貴族特有の家庭ルールだらけで、表向きはその遵守をうるさく言いつつも裏で破りまくっている主人や使用人達ばかりな賈家は、言葉と心が不一致な悪い世界であり、大変ストレスが溜まる環境なのである。やたら人生を悲観し、些細なことにもいちいち突っかかる彼女は神経質に見えてしまうが、それもちゃんと理由あってのことなのだ。揚州の実家をしきりに懐かしがるのも、のびのび出来た林家と窮屈な賈家をどうしても比べてしまうからだろう。
黛玉はいつだって自分に正直で、思ったことを言い、思ったようにしたいと願う。けれども、周囲の社会やしきたりが邪魔をする。衆に抜きん出た学問と芸術の才能もある。けれども、女性であるがゆえにそれを発揮することは許されない。病のせいで身体的にも自由がない。
彼女はそれでも、自分を押さえ込むそうした障害に抗って生きようとする。孤立したり、騒動を起こしたりもするけれど、それでも自分の気持ちを偽りたくない。誰にも頼らず、徒党も組まない。まあ、しょっちゅう大泣きしたり、ヒスって器物破壊したり、自傷行為に走ったり、紫鵑や宝玉のような理解者に理不尽な八つ当たりしたりするけど。彼女は決して自分の生き方に背かない。
この孤高な反逆者としての黛玉の生き方にもまた、人間真理の一面があると思う。自分の心に忠実であるがために精神をすり減らし、ただでさえ病弱な身体を余計に傷つけることになってしまい、文字通り命を削っているに等しい。彼女の生き方には、一種の滅びの美学を感じてしまう。
先ほど、現代人は「わがままな黛玉を嫌いに思う」と書いたが、一方で同じ現代人でも「いつも本音を言ってしまって社会や周囲から孤立してしまうけど、それでも自分の信条を曲げたくない」というような人は黛玉にとても共感出来ると思う。現代も未だに女性の人生は不自由うんちゃら言われるが、黛玉の場合は男尊女卑バリバリの封建社会で自分の生き方を貫こうとしていたのだから、その心の強さは並大抵ではない。
私も孤高の闘士としての黛玉はとても好き。
黛玉のこの造形は、もちろん作者によって意図的に作られたものである。薛宝釵が極端なまでにいい子であるように、黛玉もまた極端に自己主張が強いキャラなのだ。二人は正反対の立ち位置にいる。
自分を殺して生きた薛宝釵、自分の心に正直に生きた林黛玉、そのどちらもが不幸に陥ってしまうのが紅楼夢という作品である。
ところで、賈家における黛玉の地位については結構はっきりしないところがあり、研究者の間でもよく議論の的になっている(原因は曹雪芹の度重なる改稿での設定整理が追いつかなかったことだと思うけど)。
黛玉は本編で自ら何度も「賈家ではよそ者で身寄りが無い」と口にする。しかし家系図をよく見てみると、これはちょっとおかしい認識なのである。
まず、黛玉は史太君直系の孫である(黛玉の母親は史太君の実娘である賈敏)。賈宝玉や賈家四姉妹はよそから嫁いできた女が生んだ子供であり、史太君からすると系図では黛玉よりも遠いのだ。さらに賈敏は、史太君が自ら「一番かわいかった」と称するほどの人物でもあった。そして史太君は賈家における最高峰の権力者なのだから、孫にあたる黛玉の地位も当然めちゃくちゃ高いはずなのである。後述するが、原案では史太君は最後まで黛玉を愛し続け、生きているうちは彼女を宝玉の結婚相手とみなしていた(第六十六回の興児の台詞などからもそれがうかがえる)。
また、実家の林家は描写も少なく一族も滅んでしまい、さらに黛玉の台詞もあって表面上だけ読むと賈家より劣る家のように感じられてしまう。
が、賈家はもともと武功で名を成した一族であり、男達は祖先の世襲職を受け継いでいるだけに過ぎず、実は学問で立身した者はいない。
一方の林家はれっきとした学問の家柄、当主の林如海は科挙に合格し、巡塩御史の要職についている。巡塩御史はその名の通り国家専売である塩の売買を統括する超重要な官であり、権力も並々ならぬものがあった。作中でも林如海は免職された賈雨村を筆一本で復帰させたりしている。
紅楼夢の舞台は太平の治世であり、作中でも語られるように武力で一族を盛り立てる機会はすっかり失われている。学問で立身出来る人物は是非とも身内に欲しかったはずだ。
何より史太君が一番かわいかった娘を嫁がせるのだから、生半可な相手では満足しなかったはず。これらの点から、林家は賈家より劣るどころか、むしろ賈家の方から縁談を申し込みたいくらいの優良な家とも考えられるのだ。
巡塩御史は国策が絡むゆえに賄賂や不正で財産を築く者もいたが、林如海は作中描写を見る限り清廉な印象が強いので、どれだけ裕福だったかは意見が分かれる。とはいえ、黛玉も自分で言ってるだけで史湘雲や邢岫煙ほど具体的に困窮してる感じは無いので、経済的には賈家でも恵まれていた方だろう。ちなみに2024年版の映画「紅楼夢之金玉良縁」での林家は、賈家もびっくりするほど遺産を残している設定で、それらを賈璉夫妻が横取りして大観園の増設費用にあてる一幕があった。
なお、黛玉は「私は孤独なの…」としょっちゅうメソメソしているが、人間関係でいえば史太君、賈宝玉、侍女の紫鵑といった理解者が身近におり、他にも薛宝釵、史湘雲、賈探春と仲良しな姉妹分もそれなりにいるので、ガチでぼっち気味な迎春や惜春や妙玉とかに比べたら全然ましだと思う。ここらへん、黛玉は偏屈なので自己認識がちょっと歪んでいると言わざるをえない笑 人の好き嫌いも激しく、前半では宝釵を一方的に敵視していたが、親友になった後は打って変わり無条件で彼女の身内である香菱や宝琴まで厚遇していたりする。側仕えの侍女にしても、紫鵑とは良好な関係を築いて姉妹とも呼べるような仲になっている一方、実家から連れてきて幼い頃から仕えている雪雁のことは子供っぽいという理由で嫌っていた。
次回は紅楼夢の核でもある宝玉と黛玉の恋愛について語ります。
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