金陵十二釵の林黛玉考察、いよいよ今回で最終回になります。前回はこちら。
今回は物語の肝である黛玉と宝玉の恋愛模様について語っていこう。
紅楼夢が当時の読者を熱狂させた要因の一つが、この二人を取り巻く恋愛環境である。現代と異なり、封建社会では結婚前の若い男女が仲良く交際すること自体が困難。有名な「男女七歳にして同席せず」のフレーズを筆頭に、異性が同じ空間にいてはならないというルールがあった。教育の行き届いてない農村などではそこまでとやかく言われないが、学問をする中間層以上になると礼儀作法がうるさくなってくるためこれらは厳格に守られる。
また未婚の女性は軽々しく外出できず、結婚するまでは家の中で大事に育てられる(まあ、結婚した後も基本は家の中だけど)。当時は今より治安が良くないので、女の子が出かけたりすると悪いやつに捕まって強姦誘拐なんでもござれな犯罪に巻き込まれてしまう。現代人感覚では、ずっと女性を家に閉じ込めるなんて人権侵害だ!とか思うかもしれないが、外のトラブルから身を守るためには一応意味もある措置だったのである。
しかし、こんな環境では年若い男女のいちゃいちゃした交際など出来ようはずがない。
そのため、才子佳人小説でも「お祭りやお参りなどの女性が外出を許される機会で偶然男女が見初め合う→侍女を介して自己紹介→文通などによる交際で気持ちを確認→こっそり会う約束をして廟やホテルでベッドイン!」という大変遠回しな手段をとるのである。
しかし、紅楼夢は賈家という特殊な舞台を用いることで、これらの問題をクリアしている。
賈宝玉は厳しい父が仕事で家を空けがち、周りの男達も遊び人ばかり、と教育者が不在。そのうえ祖母が甘やかしているため家庭内の若い女子達と遊んでもおとがめなし…と、いくら男女がイチャイチャしても許される環境が整っている。
こんなのはもう、当時の読者からしたら夢みたいに甘美な世界だったに違いない。
といっても、紅楼夢で描かれている宝玉と黛玉の交際は、ほぼ全てプラトニックなもので占められている。一緒に読書して感想を共有したり、お花見しながらお酒を飲んだり、詩作をしてインテリぶってみたり、病気になったらお見舞いに行ったり…。言うまでもなく、作者が至上とする恋愛が、肉欲的なものではなく精神的な交流にあったからである。
また、宝玉と黛玉が仲良くしてもそこまでとやかく言われないもう一つの理由として、二人が幼馴染みの従兄妹同士というのも挙げられる。中国では別性ならば親戚でも結婚出来る。なお、当時の中国でも従兄弟の結婚は割と珍しくない。縁談をまとめる親側としても、よそのワケワカラン人間とくっつかせるより、もともと付き合いのあるところから相手を引っ張って来る方が身分も人柄もわかって安心だからだ。他にも、近い血族同士で繋がりを深くすれば、家全体の屋台骨を強くできるというメリットがあった。紅楼夢の中でも、賈璉と王熙鳳、邢岫烟と薛蝌のように従兄妹とは言わないまでも一族婚はいくつか例がある。
しかし、これだけ宝玉と黛玉が近くなれる条件が揃っていても、封建社会の壁はなお高い。
特に大きいのは「好き」という気持ちを面と向かって直接相手に伝えられないことだろう。宝玉も黛玉も世間の常識なんてどこ吹く風なのだが、さすがにこれを言ったらルールにうるさい周囲が黙っているはずもなく、最悪引き離されてしまうかもしれないので(実際、目端が利く襲人なんかが宝玉の告白を盗み聞きして、王夫人へ注進に及んだりしている)二人とも婉曲な言い回しやアクションで相手に好意を伝えるしかないのである。
しかしその曖昧さが徒となって、感情のアップダウンが激しくいちいち物事を複雑に考えやすい黛玉は「宝玉さんは私のことどう思ってるのかしら? ほんとに私が一番大事なの?」としばしば悩むことになる。とりわけ物語前半は「黛玉が一方的に宝釵を敵視し、宝玉と宝釵が一緒にいるだけでイライラする」「宝釵の金鎖や湘雲の金麒麟など、宝玉とお揃いの特別な持ち物を持っているだけで「私はそういうのなにも持ってないのに…!」と不安になる」など顕著だった。
紅楼夢では、宝玉・宝釵のカップリングを金玉良縁(家柄、健康など条件で相性のいいカップル)、それと対照的に宝玉と黛玉のカップリングを木石前盟(気持ちで繋がったカップル)としている。
けれども、作中の宝玉と黛玉はしょっちゅうすれ違って喧嘩をしている。そのためホントに心が通じているの?と思う読者も少なくないだろう。
宝玉が愛しているのは黛玉だけだが、しかし彼の気質や性格は、正反対に立つ黛玉と宝釵の中間あたりにいる。わかりやすい例をあげると、黛玉がヒステリーを起こすと、宝玉は理を以てなだめにかかることが多い。ところが宝釵に正論で説教されたりすると、宝玉はいつも感情的な屁理屈で反論する。
つまり、宝玉自身の気持ちは別として、彼の気質や性格は対照的なヒロインの真ん中に存在している。そこでどっちづかずにいることが作中におけるズレを呼び、ひいては宝玉と黛玉のすれ違いの原因にもなっている。
宝玉は黛玉ほど「情」になれないので、いつも黛玉のわがままやヒステリーに振り回されてしまう。しかしちゃんと重なっている「情」の部分もあるので、二人は互いを知己と認め合ってもいる。
学問に対するスタンスも、同じ部分と違う部分がある。
同じなのは、二人とも詩(ただし形式的なものではなく自由なもの)や小説といった傍流の芸術を理解し、好むという点。
違うのは、宝玉は子供とはいえ形式的な学問の無意味さから、科挙をはじめ官僚になるための学問全てを嫌っているが、黛玉は幼いころから父親のもとでそうした勉学を積んできており、科挙勉強まで否定はしていない。第四十四回では宝釵から学問について諭された時などは、素直に受け入れている(宝玉だったら我慢出来ずに反論してしまうだろう)。
また第八十七回でも宝玉に科挙勉強をするよう勧めている(ここは続作者の筆による場面。そのため一部ファンからは、黛玉に「勉強しろ」と言わせることで宝玉を勉強へ向かわせる作為があるため原案に背く、とか言われたりもするが、先述したようにそもそも黛玉が科挙受験を真っ向から否定したことはないので、そこまでおかしな描写ではない。ただこんな後半にもってくんなよ、というシチュではある)。黛玉のスタンスはあくまで「宝玉が勉強をやりたくないなら好きにすればいい」というもの。ただし、八股文の中身のなさは黛玉も当然理解はしているはずである。
他にも、宝玉も黛玉も立場の弱い者に優しい。薛宝釵の考察では低い身分の人間に酷薄(もっと言えば宝釵に限らず、紅楼夢に登場する上流女性の大半がそう)と書いたが、黛玉は結構身分の低い女の子たちを気遣う描写がある。例えば第二十回では、お遣いにやってきた佳蕙にお駄賃をあげて喜ばせている。九十六回では言い方はアレだが馬鹿姐やを慰めている。また筆頭侍女の紫鵑とは本物の姉妹とも呼べる関係性を築いている。本編でここまで親密なのは他に王熙鳳と平児くらいで、その二人ですら主人と下僕の線ははっきりさせている。
そして宝玉と黛玉のもう一つの共通点は、共に世界に対して反逆的な面を持っていることである。特に黛玉は、宝玉がルールに対して反抗している時は積極的に肩入れする(第八回で飲酒を諫められる場面など)。宝玉もそれがわかっており「黛ちゃんだったらそんなこと言わないけどね!」と心の同志として信頼を置いている(第三十二回)。
二人の喧嘩理由は、黛玉に寄り切れない宝玉の立場、黛玉の不安定な情緒によるところが大きい。それらを除けば、二人は趣味も気心もぴったりのカップルといえる。
もっとも、王夫人あたり(他にも当時の儒教社会的感覚)からしたら、二人は常識やルールに反抗的で、趣味嗜好もフツーではなく、お互いのことになると周囲を巻き込んで大暴走(第五十七回)したりするので、こんなイカれたカップルとても結婚なんかさせられんわ…と思ってしまうのもまあ、わからなくはない。
それに黛玉は宝釵と比較して健康面に大きな不安を抱えており、家事運営能力も作中ではあまり発揮されていない(目端が利き、他人の心の内を見抜く洞察力は優れているが、宝釵みたいに黙るべき局面で上手く流す芸当は無理そう。どちらかといえば強権を振るう探春や熙鳳寄りな気がする。そうすると心労が倍増するので病弱な黛玉にはキツいはず)。
現行本の後四十回では、黛玉が重くなる病で精神が不安定になり、賈家から追い出される悪夢を見たり、海棠の花の狂い咲きで「え、これ私と宝玉さんが結ばれる吉兆じゃない!?」と変に舞い上がったりしていた。
そんな中、宝玉のためとか言いつつ自分のことが一番心配な襲人の告げ口や宝玉のためとか言いつつ視野が狭くて何も考えてない王夫人の懸念、史太君の寵愛が薄れる、などなどの原因から宝玉の結婚相手として外される。折しも、賈家では通霊宝玉の紛失によって宝玉が痴呆状態になってしまい、厄除けとして結婚が行われることに。宝玉の精神を保ちつつ結婚を了承させるため、王熙鳳はすり替え作戦を練り「黛玉と結婚させる」と偽って伝え、実際には宝釵と結婚させる(中国の旧式結婚では、女性が被り物をつけた衣装をしているので、拝礼直前まで相手の顔が見えない)。
黛玉はふとしたきっかけでその陰謀を知ってしまい、ショックで吐血。二宝の結婚が行われたまさにその時、瀟湘館で紫鵑・賈探春・李紈らに看取られて死ぬ。死の直前、黛玉は宝玉との思い出がつまったハンカチや詩稿を火鉢で焼き捨て、最期に「宝玉、你好…」と口にする途中で息絶えてしまうが、この台詞の続きはおおまかに二通りの解釈がされている。
・「宝玉,你好狠!(宝玉さん、なんて酷い人なの!)」…宝釵との結婚を知り、宝玉を恨む台詞。そばにいた紫鵑は台詞の続きがこのようだったと解釈している節がある。
・「宝玉,你好好活着(宝玉さん、お元気で!)」…宝玉を愛していた黛玉なのだから、臨終にはきっと思いやりを見せるに違いない、と解釈すればこういう感じの台詞になる。
結局言葉半ばで逝ってしまったため、どちらかは不明。
ちなみにこの「宝玉你好」は当時から人気なシチュだったようで、当時濫造された紅楼夢続作の一つである「紅楼夢补」では宝釵がこの台詞を言って亡くなる笑 ご丁寧に金鎖を火鉢で焼くシチュも再現。
なお、宝釵は心ならずもすり替え婚に加担してしまったわけだが、黛玉は彼女のことをどう思っていただろうか。あくまで自論だけれど、恨んではいなかったと思う。何故なら黛玉は、宝釵がそういう人(=親や目上が決めたことには逆らわない)であるととうに理解していたからだ。
黛玉は当初、良い子に振る舞う宝釵を腹黒い人間だと思っていた。しかしそんな疑いと裏腹に、宝釵は当時の女性社会の規範(三従四徳、女に学問は必要ない、目上やルールは絶対、などなど)を心から正しいと信じて実践している女性だった。四十四回で黛玉はそれを理解する。この人は言葉と心が一致している人だと。以降、黛玉は宝釵と親友になり、従兄妹の薛宝琴や妾の香菱を含めた薛一家まるごとを愛すようになる。中秋節で仲良しの史湘雲が自分たちだけで団らんする薛一家の冷たさに文句を言った時も、黛玉は同調しなかった。まあすり替え婚については宝釵も被害者みたいなものなので、どのみち黛玉は恨むに恨めなかったはず。
また、宝玉に対しては結婚に反対して欲しかっただろうが、この時は通霊宝玉を亡くして痴呆状態でもあり、はっきり「自分は黛玉意外と結婚しない」と主張させるのも無理だった。
加えて、黛玉側には結婚を推してくれる親もいない(後四十回では史太君が説得されてしまっているため。ここはファンの意見が分かれるところ)。
したがって黛玉としては、ただただ自分自身の悲運を嘆くしかなかったといえる。
紅楼夢の映像化・戯曲化作品だと、黛玉の死の場面はもっぱらこの後四十回のパターンが採用されている。
曹雪芹の書いた紅楼夢は八十回までであるため、オリジナルの黛玉の死がどのようなものだったかは複数の説がある。が、研究者の考察では基本的に後四十回ほどドラマチックではなく、淡々とした展開になっているものが多い。私が個人的に推しているのは蔡義江氏の説(「曹雪芹笔下的黛玉之死」)で、黛玉は賈宝玉への想いから涙を流しつくして死ぬが、そこへ至るまでの因果として宝釵や親達の謀略はなかったというもの。前八十回では、史太君や王熙鳳、使用人達の中でも宝玉と黛玉の結婚は半ば公認と思わせる描写があるからだ。そして後半、宝玉がやむを得ず賈家を離れる事情が生じ、その安否を気にかける黛玉は日夜涙を尽くし、前世の因縁を全うする。宝玉がようやく帰った時、黛玉は既に亡くなった後だった、となっている。
現行本と比較してかなり地味だが、もともと紅楼夢は家庭内の出来事をそんなにドラマチックに描写する方ではない。前八十回の曹雪芹の作風・物語の整合性を考えればかなり妥当な説だと思う。
なお、傑作と名高い1987年ドラマ版がこの案に近い黛玉の死を描いている。宝玉が探春の遠方結婚に際して西海へ趣き、長いこと賈家に帰れずにいる間、宝玉を案じながら黛玉は紫鵑に看取られて寂しく亡くなる。
他にも紅学の大家は自殺やら望まぬ相手に嫁がされるなど主張しているが、やはり後四十回ほど波乱に富んではいない。したがって、後四十回の展開は良くも悪くも「物語的」であり、原案の雰囲気とは違うものといえるだろう。
私自身は、黛玉の死については後四十回を割と肯定している。紅楼夢に限らないが、古典研究は仕事上オリジナルの追及を免れず、それゆえ「オリジナル=最高のもの」と認識されやすい。一部のファンもこれと同様である。いわゆる原作至上主義というやつ。
紅楼夢終盤の原案については、脂評を筆頭とする資料で概ね明らかになっている。あくまで個人的意見だけれど、紅楼夢が原案そのままで世に出ていたら、今ほどの人気になってはいなかったと思う。原案はあまりに救いが無さ過ぎるからだ。曹雪芹のオリジナルを再現したという87年版がまさにそうだけど、確かに傑作かもしれないが話の内容はひたすら気が滅入ってしまう。リアルではあるかもしれないが、それが物語として評価されるかは別の話といういい例だと思う。だから黛玉の死を最大の悲劇として区切りをつけ、残りを穏当に終わらせている後四十回がなんだかんだ現代で広く普及している理由もわかるような気がする。雪芹の筆ではないとか、整合性の合わない部分がある(それを言い出したら前八十回だって何度も作者に改稿されて矛盾してる箇所はいくらでもあるんだけど…)という表面的な理由だけで後四十回を否定する人達は少なくないが、このバージョンが長年紅楼夢のスタンダードとして読み継がれてきた事実は、無視するべきではないと思う。
宝玉と黛玉の進まぬ恋愛は、現代人の感覚だとありふれた話かもしれないが、紅楼夢以前の男にとって都合のいいヒロインとの恋愛物語とは一線を画したリアリティがある。
当時の読者が、宝玉や黛玉のように恋愛してみたい!と熱狂夢想したのも大いにあり得ることだと思う。
最後に、映像作品のキャストについて。最も有名なのはやはり1987年版の陳暁旭だろう。ほっそりしたスタイルにじっとり潤んだ瞳、捻くれた性格がにじみ出た演技など、原作再現がとにかく素晴らしい。陳暁旭自身のままならぬ人生も黛玉を彷彿とさせるところがあり、彼女を超える林黛玉は今後余程のことが無い限り生まれないのではと思われる。
他に好きなのは89年映画版(全六部作)の陶慧敏。美人度でいったら陳暁旭さんの黛玉より上だと思う(陳さんは美人というより黛玉が本から出てきました、に近い)。国家一級演員だけあって演技もうまい。
年配の方なら周旋とか樂蒂あたりの黛玉を浮かべる人もいるかもだけど、私はどっちもあんまり好きではない。
紅迷は基本強火なので、近年の紅楼夢では誰が林黛玉をやってもまず叩かれることが常態化している。2010年版は大々的なオーディションを行ったが、結果としてドラマの出来がアレだったのでその余波で悪くない演者さんもボコボコに言われてしまった。まあ、私も蒋梦婕はあんまり黛玉に合ってなかったと思うけど…。
他にも2024年制作の「金玉良縁紅楼夢」で黛玉を演じた张淼怡は、年齢を考えればとてもいい演技をしていたと思うんだけれど、やはり大陸での評価は厳しめ。
今回でこの金陵十二釵考察も終わりなのでちょっとまとめみたいなものを。薛宝釵から始めて、気がついたら終わるのに六年もかかってしまいました。
自分は一介のファンに過ぎないので、原作とドラマは一通りおさえてますが、紅学関係の本はメジャーどころ以外あまり読んでいません。
また、この考察ではファンタジー絡みの話はほとんど言及していませんが、それにも理由があって、紅楼夢のファンタジー設定は言ってしまえば検閲除けのガワなので、それに注視すると人物や物語を考察する意味が無くなるからです(というか、そういう読み方をして紅楼夢を見誤っている人達を割とチラホラ見かける)。それこそ人物は第5回の太虚幻境で全て運命が語られるので、ファンタジーに則って考えるならそこでもう話は終わってしまいます。
紅楼夢はファンタジー設定に仮託しているだけで、大部分で描かれているのは清濁まじった現実世界の実態であり、それを踏まえてこそ人物達の生き様を深掘りする意味があると思います。
コメント
7年間お疲れ様でした。
改めて思うことは、これだけ書けるのがつくづく羨ましい。
私は自閉症でアウトプットが不得手なので、
感想に代えて、感動箇所を列記します。
(蘇晗の「香客問簽」を流しながら)
①薛宝釵2019/11/4
実際のところはむしろ変人の部類に入るんじゃないかと思う。
要するに雪=冷たい人という意味だ。
彼女の優れた才能は、自らが幸せになれると信じて学んだ儒教思想のために、使い道を潰されてしまったのだ。
②賈惜春2019/11/24
汚い大人達の住む、俗まみれの世界。
幼い惜春は、そこに居続けることが耐えられないし、自分も彼らと同じ存在だと思われるのが耐えられない。
③秦可卿2020/1/26
奴隷身分の人間なんて、主人の意向一つであっさり運命が決まってしまう。
娘分になるというのは、あくまで身を守るための口実だったわけだ。
なんと不動産運営のテクニックを熙鳳に伝授する。
④賈迎春2021/10/10
姉妹達も口にこそ出さないが「あの人はおとなしくて死人みたいな方だから…」などとディスるようになる。
「あぁ…迎春さんは空気みたいな方ですからね。
何もない迎春はそのためにかえって居場所がないのだった。
⑤李紈2023/6/26
「百人の宝玉が死んでも一人の賈珠に及ばない(ひでえ言い草だな)」
礼儀がちがちの賈家ではそう生きるより他なかったともいえる。
下の人達に優しい主人なんてカモにされるばかりである。
⑥史湘雲2023/10/15
⑦賈探春2024/6/17
⑧賈元春2025/3/12
賈家への経済的負担を増大させてしまう。
はっきり言って壮大な無駄遣い意外の何でもなく、
メンテナンス代だけでも馬鹿にならない)
賈家の人々の無計画ぶりがうかがえる。
姉へ対して殆ど言及しない。
⑨妙玉2025/8/7
わかりやすくいうと、オタクに邁進したのである。
はっきりいって友達なくす子の態度である。
妙玉が人とろくに交流せずコミュ力不足なゆえか。
つまり妙玉は「もし黛玉が出家していたら」という仮定を再現した人物なのだ。
⑩王熙鳳2025/10/4
出番の多さだけなら宝黛釵よりも多いくらいだったりする。
外から嫁いできた女性は基本的に最下層の地位である。
夫の璉は賈家屈指の遊び人。
夫を監視させていたが、あまり効果はなかった。
ちょっと人に言えない間柄でもあったようだ。
男児を産んでいることへの嫉妬があるのかもしれない(
面子を保ちたい気持ちがあったのではないか。
舅の賈赦は女好きのジジイ、姑の邢夫人は心の狭いケチ、夫の賈璉は遊び人、
宴会に出れば年頃の女性らしく羽目を外す。
出戻りになることは死刑宣告に等しい。
煕鳳と宝釵は前八十回で殆どやりとりがない。
⑪巧姐2025/11/27
⑫林黛玉2026/9/29
言うまでもなく中国古典小説におけるヒロインの最高峰。
旧中国における学問の主流は政治・歴史であり、
林黛玉の学問描写は、どちらかといえば傍流寄りに近い。
小説というのはまだまだ正当な文人からすると低俗な読み物だった。
私に言わせたら黛玉の方がよっぽど性倒錯していると思う(幼少から男児教育を受けたせいか思想も趣味も男の子寄りで当時の女性社会とズレている)。
黛玉の悲劇に関してはしっかり描き切っており、後四十回の最も優れた部分だと思う(これについてはまたその③で詳しく)。
自身が第二十二回で口にした「我为的是我的心(私は自分の心に正直でいたいの)」に集約されると思う。
反骨精神バリバリの大変ロックな女性なのだ。
病のせいで身体的にも自由がない。
この孤高な反逆者としての黛玉の生き方にもまた、人間真理の一面があると思う。
女の子が出かけたりすると悪いやつに捕まって強姦誘拐なんでもござれな犯罪に巻き込まれてしまう。
当時の読者からしたら夢みたいに甘美な世界だったに違いない。
特に大きいのは「好き」という気持ちを面と向かって直接相手に伝えられないことだろう。
しかし彼の気質や性格は、正反対に立つ黛玉と宝釵の中間あたりにいる。
彼の気質や性格は対照的なヒロインの真ん中に存在している。
宝玉は黛玉ほど「情」になれないので、いつも黛玉のわがままやヒステリーに振り回されてしまう。しかしちゃんと重なっている「情」の部分もあるので、二人は互いを知己と認め合ってもいる。
科挙勉強まで否定はしていない。
ただこんな後半にもってくんなよ、というシチュではある)。
黛玉のスタンスはあくまで「宝玉が勉強をやりたくないなら好きにすればいい」というもの。
宝玉も黛玉も立場の弱い者に優しい。
また筆頭侍女の紫鵑とは本物の姉妹とも呼べる関係性を築いている。
共に世界に対して反逆的な面を持っていることである。特に黛玉は、宝玉がルールに対して反抗している時は積極的に肩入れする(
宝玉もそれがわかっており「黛ちゃんだったらそんなこと言わないけどね!」と心の同志として信頼を置いている(第三十二回)。
宝玉のためとか言いつつ自分のことが一番心配な襲人の告げ口や宝玉のためとか言いつつ視野が狭くて何も考えてない王夫人の懸念、
宝釵は当時の女性社会の規範(三従四徳、女に学問は必要ない、目上やルールは絶対、などなど)を心から正しいと信じて実践している女性だった。四十四回で黛玉はそれを理解する。この人は言葉と心が一致している人だと。以降、黛玉は宝釵と親友になり、従兄妹の薛宝琴や妾の香菱を含めた薛一家まるごとを愛すようになる。中秋節で仲良しの史湘雲が自分たちだけで団らんする薛一家の冷たさに文句を言った時も、黛玉は同調しなかった。
後四十回の展開は良くも悪くも「物語的」であり、原案の雰囲気とは違うものといえるだろう。
古典研究は仕事上オリジナルの追及を免れず、それゆえ「オリジナル=最高のもの」と認識されやすい。一部のファンもこれと同様である。いわゆる原作至上主義というやつ。
紅楼夢が原案そのままで世に出ていたら、今ほどの人気になってはいなかったと思う。原案はあまりに救いが無さ過ぎるからだ。曹雪芹のオリジナルを再現したという87年版がまさにそうだけど、確かに傑作かもしれないが話の内容はひたすら気が滅入ってしまう。リアルではあるかもしれないが、それが物語として評価されるかは別の話といういい例だと思う。
紅迷は基本強火なので、
紅楼夢のファンタジー設定は言ってしまえば検閲除けのガワなので、
大部分で描かれているのは清濁まじった現実世界の実態であり、それを踏まえてこそ人物達の生き様を深掘りする意味があると思います。
甄智通さま
長年お付き合いいただき本当にありがとうございました!記事の作成期間を見返したら一年近く放置していた時もあり…怠け者で申し訳ありません。毎回温かいお言葉をいただき大変励みになっておりました。
金陵十二釵は今回で終わりですが、賈宝玉と、お気に入りの侍女キャラ何人かについてはまた長々考察記事を書くつもりなので、よろしければ今後ともお付き合いのほどをよろしくお願いいたします!
阿良々木 曆「終物語で 終わらない!?」
黒崎 一護「……何…… ……だと……」
シャア「まだだ… まだ終わらんよ!」
黒ひげ「人の夢は!!! 終わらねェ!!!!」
被験体「アーニャo(^o^)oわくわく」
実は、何年も前から願ってました。
襲人・鴛鴦・紫鵑・平児・晴雯も、
書いてほいしな~言えないな~と。
なのでもう嬉しいなんてもんじゃ、
浮かれすぎて足小指を打つけそう。